古仏にせよ古建築にせよ、生きていなければならない、という事だ。博物館や美術館のガラスケースに収まってしまった古仏は、確実に死んで行く。古建築もそう。例えば奥州平泉の中尊寺金色堂などは、文化財保護の為余儀ない事とはいえ、コンクリートの覆堂によってすっぽりと覆われ、さらに四方をガラス窓で遮られてしまって、完全に死んでいる訳だ。仏像も堂宇内陣で間近に拝観出来るものでないと駄目である。屈指の傑作・奈良聖林寺の十一面観音も、折角堂宇に安置されながら、ガラスケースに囚われの身である。実にもったいない。これら古美術を考える時忘れてならないのは、同時にそれらは現在に生きる信仰の対象であり続けているのだ、という事である。能についても、全く同じ事が言える。ガラスケースに入った能面は確実に死んで行くという増田正造氏の説は正しいが、面のみならず、能それ自体をガラスケースに入れてしまってはならないのだ。外気に触れねば死んでしまう。故に、実は「能楽堂」なる近代の覆堂もまた、野外こそ真骨頂たる能にとって諸刃の剣なのであった。