先日、ワークショップを終えて稽古場を出る時の事だ。共同演出の空也さんが夜空を見上げてこう言った。
「太夫さん、『田村』ですよ」
そう言われて私も夜空を見上げる。綺麗に澄んだ濃紺の夜空に、月が煌々と冴えている。そして稽古場の庭には、桜が今を盛りと咲き満ちている。穏やかな春の陽気を含みつつも、この時間の空気は凛として冷ややかだ。
春宵一刻、値千金…
ああ、まさしく能『田村』の世界なのだ。これで場所が京都の清水寺だったら、それこそ地主の社から由ありげな花守の童子が滲み出て来てもおかしくはない。
能を解析する時、一つにはこういう要素がある。
季節とか土地とか情景とか、そういうものと能の言葉とは渾然一体と化している。
もはや、京清水の春の宵、そこに在る花と月とが言葉なのか、それともそこに現れる花守の童子が旅の僧に語って聞かせる言葉の数々が自然なのか、自然と詞章とが融けあい絡みあっていずれをいずれとも分かち難い。そして双方の楽器は世にも妙なる協奏曲を奏でるのだ。
こういうのをおそらく「絶唱」というのだろう。
絶唱といえば、先日は満開だった桜が、今日はすでに散り始めている。
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ 紀友則
毎年、この季節になると友則のこの歌を思い出さずにはいられない。彼の絶唱は、桜という品種とともに悠久の命運をともにすることになった。
能では自然と言葉が一体化しているのだ。
世阿弥が父・観阿弥の教えとして風姿花伝に記しているところによれば、ただただ稽古に専念あるべし、ただし歌道はたしなめという。
能面も型なら、自然と言葉、四季と人心の結晶たる歌もまた、能にあっては一つの型なのだろう。
いやはや、陰暦夏四月、卯の花月夜の逢坂の関に行ってみたくなってきた。
『香炉峯』の季と処なのである。