12日。国語学者にして朧座国語監修・TADAZUMI先生、稽古場初お目見え。本編前半部、読みの指導を戴く。有意義極まる内容。国語監修などというと語弊があるかも知れない。何を隠そう、先生は高校時代の私の恩師で、当時古典など興味もなかった私を今日の状態に変えて下さった方なのだ。名教師とは、すなわち役者である。能楽にももちろんお詳しいし、ご自身もバレエの稽古に余念なくしばしば舞台に立たれるという演劇人なのである。私も今まで出演した作品の言葉遣いが気になったときなどは必ず先生のご教示を仰いできた。その先生のことであるから、指導監修も「演劇の台本の読み」という視座に徹して下さり、本当に貴重な助言を多数戴いた。学者ではなく役者としての監修であったと、つくづく共同演出・空也坊とともに感謝の念を語り合ったことである。先生、引き続きご指導の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
16日。能(『船弁慶』)のビデオを御覧になった出演者の小名紫さんより大事な提案有り。そう、今はワークショップ期間であるからこのような提案は大歓迎で、禁じ手といったものは特にないのだ。ああでもないこうでもないと色々意見を自由に出し合いながら失敗を恐れず試せる場、それがワークショップではないだろうか。
で、紫さんの提案というのはこうである。「ビデオの中で、子方の演技が印象的だった。シテやワキと違い何を言っているのかわかるのだ。こういう感じなら、我々も挑戦できるのではないか」と。
実は、他の出演者もみなこれと同様の感想を持ったらしい。こういう反応は、能に慣れてしまっている私や空也坊には誠に新鮮であった。しかし、言われてみるとなるほどと思う。この先我々が子方の演技に学ぶところは大きそうだ。
16日のワークショップでは、最終的には能ではなく今申楽における謡、名付けて今謡とはいかにあるべきかまで話が進んだ。どこまで感情を表現して良いのか、どこからはモノトーンに叙景に徹するべきか。
帰宅後、出演者の川野誠一さんと電話で話し合う。彼は先日、世阿弥の代表作『井筒』を初めて観て、色々と考えるところがあったようだ。特にワキの存在が、観客と同じ様な位置にあり、ただ見ている、ただ聞いていると言った感じがした、彼としてはもう少し物語の中で「何を感じているのか?」そういった演じ方をしても良いのではと思ったとのことである。また、今日では完全な「一人説明」となっている間狂言についても何かを感じたようだ。
演劇は何事かの到来を描くという。能は何者かの到来を描くという。私は、何者かの到来を何者かが心に感じ受け止め言葉を交わす、そういう何事かを描きたい。
舞台は、何者かと何者かが出逢うという逢坂の関である。