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能は原作

よく聞かれる。今申楽にとって、能とは何なのか、と。答えよう。能は今申楽にとって「原作」である。
小説を映画化したい時、監督は小説の書き方を学ぶ必要があるだろうか。ない。知る必要があるのはその小説に表されている世界の方である。その世界を、彼の技術で映画の世界に換骨奪胎するわけだ。
アニメーションの原作が漫画である場合、違和感は比較的少なく済むと言う人もいるけれど、ものによるだろう。私が子供の頃テレビで放映されたアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』は、水木しげる氏の原作とあまりにも違い過ぎるということで、水木ファンには評判がよくなかった。私も水木ファンだが、その違いが面白かった。アニメにはアニメの良さがあった。アレンジの妙と、アニメの作り手たちの冒険を好意的に受け止めていたものである。
水木漫画には、農村とか、太平洋戦争前後の雰囲気が横溢している。それはそれ、私の眼には異郷として魅力的に映えるわけだが、しかしアニメ放映当時というのは80年代、バブル全盛時代である。妖怪ぬらりひょんがベンツを乗り回していたり、妖怪いやみが原宿の歩行者天国に出没したり、水木ワールドの住人たちを時代の空気にうまく生かしていたと思う。

話は脱線したが、要はそういうことである。
今申楽は、能ではない。能を「原作」としてはいるが、別物である。しかも、能の小説版とか漫画版とかの方が違和感は少ないだろう。今申楽の場合、同じ舞台芸術であるだけに、かえって違和感は大きいだろう。
最近、市川猿之助氏の「スーパー歌舞伎」なる造語の上手さをつくづく痛感している。「スーパー」なんて変わった形容詞が付いてるから、明らかに別物なのだ。それでいて、猿之助氏なら「歌舞伎」を名乗る資格があるだろう、歌舞伎役者なのだから。訳せば超歌舞伎、歌舞伎を超えてかつ歌舞伎であるという心意気であろう。
だから、古典歌舞伎のファンがスーパー歌舞伎を観た時味わうであろう違和感よりも、もっともっと大きいはずである。能だと思って来られた方が今申楽を観て経験されるであろう違和感は…。

その違和感をこそ、ぜひともお楽しみ願いたい。
能は原作。御期待の程、こいねがう次第である。

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2004年05月07日 01:50に投稿されたエントリーのページです。

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