芝居というものがよく分からなくなるときがある。
私は、ずっと役者をやってきたが、近頃は作演出の面白味に気付きつつある。
作演出デビューは『如人草(にょにんそう)』なる作品だった。
こちらは、登場人物全員、完全に現代口語を操る普通の芝居(内容はあんまり普通じゃなかったが)。
何しろデビュー作、作演出家として経験もない実績もない。
だから、自ずから私の先輩に当たるような役者は誘いにくく、出演者の多くは私と同じくらいか私よりも後輩に当たるような役者であった。その中には(これは狙いでもあったのだが)観劇体験は誠に豊富だが演劇体験はゼロ、といういわゆる素人も何人かいた。
この、いわゆる素人さんたちの放った存在感、舞台に生きる躍動感といったらなかった。彼らは普段は役者という肩書きを背負って生きていない(これから先は知らないが)、『如人草』終了後はとりあえず再び堅気(?)の世界に戻ったようなのでここに実名を出すことは一応控えて、役名で呼んでおくことにしよう。
奈菜篠権兵衛さんと、山辺宮弘仁親王殿下である。
舞台が終わった今だからハッキリ白状するが、私はこの二人の存在感を生涯忘れることはないだろう。
奈菜篠さんは、普段、何も喋らない役である。台詞がほとんどない役なのだ。その彼が「…悟じゃなくて?」という台詞を放つ瞬間、舞台上にとんでもない花が咲いてしまうのだった。殿下は、普段、ヘラヘラ酒を呑んで徹夜で麻雀やってるだけの遊び人である。その遊び人が一瞬「山田」と、自らの使用人の名を真面目に発する瞬間、やはりこれまた忘れ難い花がほころぶのである。
この二人を観ていてつくづく考えさせられた。花ってなんだろうと。
世阿弥もさかんに花、花、花、と言っている。
一つ、確かに言えることがある。
彼らは普段、役者という肩書きを背負って生きていない。
だから、決して造花になることはないのである。
芝居というものがよく分からなくなるときがある。