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私の仕事

私は、お客様の為の表現に生きていたい。
お客様に夢を与え勇気付ける、そのような舞台芸術の一担い手であり続けたい。
何やら経営方針みたいな書き出しで始まってしまったが、切にそう思う。

つい、「何を表現するか」に血道をあげるあまり、「誰に表現するか」を忘れがちである。お客様の為の表現なのだ。表現者自身の為の表現であってはならないのだ。木戸銭を頂戴するとは、つまりそういうことである。
戒めているつもりでも、いつの間にかつい、その戒めが緩んでくる。厳に用心しなければならない。舞台芸術の最終完成者は観客である。
私が最終的に信用するのは、お客様である。そして、お客様を忘れる事なくちゃんとお客様の期待に応ずるだけの力を備えた台本と共演者である。

何もこびへつらって言うのではない。「お客様は神様です」は名言である。

では、どうすればお客様に夢を与え勇気付けることが出来るのだろうか?
私の場合、どうすればお客様の為の表現に生きて行くことが出来るのだろうか?

最近、それは「埋もれた過去の神話を掘り起し、それを現代の観客に語りかける」ということなのだろうか、などと漠然と考えている。
「神話的」という言葉は、「共有の記憶にある」「共通に記憶されている」などと言い換える事が出来ると思う。小さな仲間うちにおける共通ではなく、大きな大きな、民族的規模における共通である。
ところがたまに、「皆に当然記憶されているはずの事項であるのに、何かの事情で忘れられている、または誤解されている」というような事柄がある。長い歴史の背後には、後世の人間が正しく記憶しなおすべき案件がたくさんあるはずだ。
例えば──この例は、神話というにはまだちょっと新し過ぎる、ごく最近の人物と私は思うが──「犬公方」こと五代将軍・徳川綱吉に対する現代人の記憶などは大いに訂正の余地があると思う。犬には犬権あり猫には猫権あり、いわんや人においてをや、江戸を殺人の世から文化の世へと転換させた大仕掛け人ではないのか。テロが毎日のように起こり、人殺しが平然と行われる今日、我々現代人は生類憐れみの令を手放しで笑う資格があるであろうか。
北条政子だってそうだ。恐ろしいやきもちを焼いて夫頼朝を困らせたというが、一夫多妻が理の当然、誰もがこれを信じて疑わなかったあの時代に、「一夫一妻」じゃなきゃ駄目よ!と直感で看破した女性である。「生涯この女を妻とし変わらぬ愛を…」などと誓ってもらえる時代ではないのだ。大変な炯眼である。

という訳で、今は政子にちょっと関心をもっている。
多くの歴史家が彼女に対して、ひどく雑な言い方をしているのが気になるのだ。
例えば「政子は子よりも実家の北条家を中心に考えて行く。そして、最後まで彼女自身のいわば間接的な命令でその子供たち──頼家、実朝──が死んで行く」というような言がまかり通っている。本当であろうか。
やはりどうも、この人も「記憶の訂正」を待っている一人という気がしてならない。

歴史上かくかくしかじかと伝えられるあの人物の、真の言い分。
それを代弁して現代人に語りかける時、観客の内奥に、ある何事かが確かに起きる、その何事かの為に生きられれば、もう他にさしたる望みはない。

以上の雑言を要するに、現代の人々の心に届き伝わることを待っている過去の人々が多くいる、その橋渡しこそが私の仕事なのではないか?現代の人々の心に届き伝わらなければ意味がないのだ。なぜなら過去の人々はそれを心待ちにしているのだから。
返す返すも、お客様の為の表現に生きていたいと思う、私は。
と、こうして結論はここに帰ってくるのであった。

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2004年07月07日 22:14に投稿されたエントリーのページです。

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