故・田中一光氏と言えば、現代日本を代表するデザイナーの一人であった。
その氏が、こんなことを書いている。
私の古典
私にとっては興福寺にしろ、東大寺にし
ろ、幼年のころからの遊び場であった。
また、少なくとも月に一度や二度は
祖母たちに手をひかれて、参詣した
信仰の寺々でもあり、国宝になって
しまった興福寺の三重塔など
小学校帰りの道草の場所であった。
当時は興福寺三重塔の周辺はまだ
囲いもなく雑草が生い繁るうす暗い
ところであった。
塔を三度廻って石を投げると鬼婆が出
るというので、塔に石をぶつけては一
目散に逃げ帰ったりした記憶がある。
早春の東大寺二月堂のお水取りも、
その後に行われる
達陀(だったん)帽子の行事も、
春日大社の雅楽も薪能も、
すべて奈良の市民のお祭りである。
なんの不思議もなく、
千数百年前の古典に対して日常的
な接触を繰り返していたのである。
(『第7回現代芸術祭「田中一光展 伝統と今日のデザイン」カタログ』
富山県立近代美術館発行)
誠に、奈良の魅力を語って余すところがない。
氏の示唆する如く、《真に古代が生きている》ところにこの地の得難い良さがある。
猿沢の池や奈良町辺りの小路など、県庁所在地だというのに、夜は真なる闇である。
これが京都では、こうは行くまい。
祇園の喧騒、高瀬川のネオン。私の求める情緒は、そこにはない。
再び、田中氏の文章を引く。
能の美しさ
能の舞台に登場する「造り物」は、簡素
で華やかで、夾雑物をすっかり取り除
いてしまったまるで彫刻の骨格のよう
である。いつも、その存在感と優雅な
美しさにみとれてしまうのである。
なにしろ、戦後は欧米の舞台美術の
リアリズムがどこまでも主流であり、
写実を越えることのできる抽象の美の
真髄を、私は改めて能から教わったと
思っている。
一畳台の貧しい宿で枕をとる寝台が
一転して、貴族の部室に転換する。
能が美しいと思うのは単に視覚的な
ことを指すばかりではない。
詞による文学性が舞台一面に満々と
たたえられていて、動かない。
老いた小町が美しい過去を語る
場面で、人間のはかなさが
ハラリと落ちる。
そんな時、能は近代を越えていると
いつも思う。
(同)
あまりにも良い文章なので引用してみた。
今申楽も、むろん現代の観客というものを両手に受け止めた上で、最終的に帰するところはこういう境地でありたい。
今の能を観て、何から何までこれが能本来の抽象美であるとは私は思わない。
さりとて、江戸期の洗練過剰・形骸化の弊を厭う余り、能を目先の近代リアリズムに近付けようなどと企てるのは甚だ愚かな蛮行と言わねばならぬ。
能を殺す所業である。
今の能から、現代の観客にも《ハンディなし》に通ずる能本来の美のありようをすくい上げることこそ、我ら今申楽朧座が天に課された(?)使命なのである。
それにしても、現代美術の大家が能に造詣が深かったなどというのは、もっと知られて良い事実だと思う。
無印良品をぶらつきながら、ふと能の抽象美と出くわす事だって出来るかも知れないのだから。