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久しぶりの観能

久しぶりに能を観てきた。朧座第一回公演以来、初めての観能である。
能楽堂に到着、客席中正面に座を占める。そうそう、この中正面というポジション、舞台の柱が邪魔になって客の視界をさえぎるという問題があるのだった。
舞台後方、鏡板に描かれた巨大な松の木に目が止まる。この松の木を今申楽ではどう処理したものか、舞台美術の横井さんらとさんざん話し合ったものだ。そういえば大昔、照明の吉川さんに「いつか新しい能を創るのでその時は是非力をお貸し下さい」とお願いした時、「タユー、あれが何を意味しているか、知ってるか?」と聞かれたのもこの松の木であった。
やがて橋掛かりの奥、五色の幕の向こうから囃子方のお調べが聞こえてくる。ああ、橋掛かり、幕、お調べ、全部一から検討したなあ…などと既に感無量。能はまだこれからだというのに。
能が始まる。曲は『雷電』。鬼や化け物が登場して比較的派手な展開を見せる切能(きりのう)の一つ。本曲ではかの菅原道真の怨霊が登場し、都に怨念の雷を雨あられのごとくほとばしらせる。台詞がよく聞き取れないのは別に今回の演者のせいではなく、私に言わせるとほぼ能一般に言えること。そして今申楽がもっとも力を注いで立ち向かわなければならない問題でもある。
昔の私は若気の至りで、この「言葉がよく聞き取れない」という一事を、能楽なる芸能が今日抱え持つ最大の瑕疵(キズ)と悪くとらえていた。まあ、その観方が100パーセント間違っているとは今でも思わない。しかし、そんな昔に比べて、ずいぶん好意的に能を眺めるようになった自分自身に、今回ビックリさせられた。これも、今申楽を実際に世に送り出してしまった事の一つの結果であろうか。もう、言葉を追うのは止めていたのだ。能に「聞き取れる言葉」を期待するのは止めていたのだ。役者が何を言っているのか聞き取れない、それでもシテが俄かに面色を変えた様、そのただならぬ気配に気付いて祈祷の構えをとるワキの緊張、そして地謡勢の醸し出す「吟」の迫力。日本国の臣下にあっては史上最強の怨念をもって憤死した菅公の異様なオーラがまざまざ舞台にみなぎっているのを、言葉に頼らずとも肌で感ずることは十分出来る。
それで良いのだ…という、能の観方としては初歩の初歩に属するような事柄を、私というへそ曲がりは今になってようやく体得出来たようである。
「聞き取れる言葉」で能の本を読む、それはもはや能ではなく我々の仕事なのだ。
そして、後段。この曲が、まさにそのタイトルが示す如く、落雷に対する古代人の恐怖をそのまま舞台にすくい上げたものであることを痛感する。現代人にとっても、雷は怖い。その原理がわかっているつもりでも、本能的にあの音、しかもそれが連続する時人に与える精神的な影響というものをこの能は描いていると思う。
シテが所狭しと舞台上を蹂躙して床を踏みとどろかせる様は、まさしく京の都のあちこちに次々と下る怒りの鉄槌、神の雷鳴なのだ。
と、そう考えると、切能というものも全く馬鹿には出来ないものだと気付く。切能というとつい、ショー的な派手な見せ場で退屈させないものだというふうに考える演者見者が多いのではないか。違う、その根っ子にある日本人本来の自然物に対する畏怖や恐怖こそが大切なのではなかろうか。ショーで退屈させないなどというのは皮相な見方であって、そういう誤解がまかり通っている以上、能はいつまでも「基本的には退屈な芸能」であり続けることだろう。
切能を、芸術的なホラーと言い換える事は許されるような気がする。人間精神の内奥に根ざした、深い深いホラーである。単なる化け物ショーではないのだ、そんなものは遊園地に行って満喫すれば良い。
その辺りの事情を、『風姿花伝』は次の一言でズバリ見事に言い切る。
「ただ鬼のおもしろからむ嗜み、巌(いわお)に花の咲かんがごとし」
巌に花が咲くようであれというわけだ。
そんな切能を、いつか私も今申楽で創ってみたいものだ。

閑話休題。
今の能に対する《理解》と、その《理解》の上に初めて生まれる《違和感》──《理解》の上に立たない《違和感》は今申楽には不要である。それは単なる食わず嫌いでありアレルギーである。《理解》する前に《違和感》だけを覚える、そういう人間は能にも今申楽にも関わるべきではない──《理解》とその上での《違和感》、この二つなくして、今申楽を演ずることは出来ないだろう。それどころか、作・演出が演技者に何を要求しているのかもわからず、ただ空しさだけを感ずる結果となるだろう。
たとえば、「高貴」とか「品格」とかいう言葉を演出が使った場合、まず、能ではそれらがどういうイメージで使われる言葉であるのかを演技者は当然の用意として知る必要がある。漫画『ドラえもん』に登場するスネ夫の母親は、自分の息子をスネちゃまと称し、また「ざます」なる助動詞を頻発するわけだが、これを「高貴」な「品格」ある言葉遣いなのだと彼女は思っているわけである。だからもし仮にスネ夫の母が今申楽に出演する場合、まず「高貴」「品格」なる語彙をめぐって、己と演出との間にいかなる受容の差があるかをまず知ろうとしなければならない。
いくら今申楽といったって、おおもとは能楽なのだ。ハッキリ言ってしまえば現代演劇の俳優が新しく創る能楽なのだ。
つまり、今申楽って能楽じゃないんでしょ?という感想を以上の文脈から抱くとしたら、私はそういう人たちと日本語でまともに交流をはかれる自信はない。

朧座第一回公演のある出演者の言葉を借りて言えば「能スピリッツ」である。
それを消化しようという意識が今申楽参加者には当然必要だ。

前回公演のビデオを観ながら、またこうして本式の能を観ながら、改めてその感を強く強くせざるを得ない。
演劇は言うまでもなく俳優によって演ぜられる。舞台上には劇作家も演出家も存在しない。にもかかわらず、俳優を観に来る観客は一人もいないのだ(新宿コマなんかは別。歌舞伎も別)。
お客様は全てを観ている。

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2004年07月25日 12:35に投稿されたエントリーのページです。

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