とあるイベントでスタッフの仕事をしてきた。
某大企業が主催する、商品の展示会である。
会場内では見目麗しいモデルの美女たちが、商品の傍らにはべってめいめい悩ましいかっこうで突っ立っている。
主催者としては、当然目的は商品の宣伝広告にあり、美女たちはその目的遂行のためのプロセスに過ぎない。
ところが、そのプロセスをこそ主なる目的と考えて来場する向きがある。
数は多い。この炎暑の中めいめい重たげなカメラを持参し、商品そっちのけで美女の前に殺到、フラッシュをたきまくる。
イベント関係者は彼らをカメラ小僧と呼びならわし、ほとんど人間扱いしていない。
「カメコがこの辺りまで来たら追っ払っちゃって下さい」
「カメコには景品渡さなくていいです、もったいないから」
「カメコは基本的に無視して下さい」
カメコ軍団、さりとは知らず猛然とシャッターを切り続ける。モデルはただ艶然と微笑み続ける。
観察していたら、そのうち面白いことに気が付いた。
最初私は、カメコさんたちは何が楽しくてモデルに夢中になっているのか理解出来なかった。
モデルは、人形のように、微笑みながらただ突っ立っているだけだ。
美しいと言えばもちろん確かに美しいのだが、グラビアアイドルなんかにもっと上位に属する女性はたくさんいそうな気がする。
台詞は、司会者にマイクを向けられてほんの一言、見え透いた商品のお世辞を口にするだけ。もちろん、予め台本で決められているヤラセである。
こんなの、いったい何が楽しいというのか。
ところが、だんだんわかってきた。
彼女たちはカメコ軍団にとって、目と鼻の先という至近距離で拝める美女なのだ。手を伸ばせば体に触れてしまえる近さで、彼女らのまばたきやら息遣いやらを直に見聞することが出来る。ここがグラビアアイドルと決定的に違うところだ。
一言の台詞。毎度言う内容(お世辞)も言い方(可愛く)も決まりきっている。
だからこそ、そこに微妙な、甚だ微妙な陰影がかすかに見え隠れしたとき、かえって彼女たちの「生」が奇妙に強く印象に残るのではなかろうか。何を言っても良い、どう言っても良いという、「何でもありの自由さ」に比べて。
何もかも決まっているからこそ、「あ、今少しだけ声がかすれたな、緊張してるのかな」「あれ、今一瞬俺と目が合ったぞ、いつもは商品の方ばかり見ているのに。三日間通い続けた想いが通じたのかな」などなどの想像をかきたてられるわけであろう。
本当は彼女は何を考えながらそこに存在しているのか。彼女の言葉や顔の表情、その表面には決して現れることのない彼女の心の奥底をのぞきこみ推し量りたくなるのである。
こういう、うわべからはうかがい知れない物事の奥深くに存する魅力を世阿弥は「幽玄」と名付け、能という芸能の言わばタグライン(人の心に訴えるメッセージ)としてこの言葉を事あるごとに使っている。
しからば、このカメコさんたちも、モデル勢の幽玄にどっぷりしてやられたということになるのであろう。能の幽玄にしてやられた私も、同じようなものだ。
まあ、生身のモデルが発散する幽玄と、木彫りの女面が醸し出す幽玄とはちと違う気もするが。
しかし、この二つ、室町時代には現代の我々が想像するよりかなり近いものだった可能性もある。
生身の「モデル」という現代的枠組ではなく、生身の「遊女や巫女や白拍子や稚児」という中世的枠組で想像すると、室町時代の幽玄に一歩近づけるのかも知れない。
そういえば昔、ストリッパーに能面を着けさせ「ヌード能」なる実験を試みた演出家(武智鉄二氏)がいたそうだ。どんなものか、ちょっと想像もつかない。怖いもの見たさでものは試しに一度見てみたかった。
かの足利義満も世阿弥にストリップ能くらいさせているかも知れない。山田風太郎氏の小説『婆娑羅』の最終場面などは、その可能性を大いに示唆するものである。いや、示唆どころか、若き日の義満と世阿弥が能『石橋』(歌舞伎で言うところの連獅子)をともに舞い戯れながら、いつしか舞台上でほんももの獣と化して交わり始める、それを独り客席で見ている、いや見せつけられているバサラ大名佐々木道誉がついに観能中に悶絶に及ぶというのだから、いやはや凄まじい内容なのだ。ゲイ能とでもいうべきか。
「幽玄」。今ひとつ、彼が能のタグラインとして打ち立てたものに「花」がある。
まあ、花について思うところはまたいつか述べることになろう。
閑話休題。商品の展示会だけあって、会場はバイライン(商品やサービス内容の明確な提示)・タグラインのオンパレードである。
今申楽朧座のバイラインは、昔は「新しい能楽を創る」だった。しかし、これは仮のもので、私自身なんとなく違和感を伴うものだった。そこで、新しく「能楽の台本を現代の戯曲として読みなおす。俳優と能楽師、二つの身体の邂逅──」というバイラインを考えてみた。これは今申楽朧座の内容説明としてはわりあい正確である。しかし、いささか長過ぎると思っていた。そこへ、ふと思いついたのである。
いつから、
「能楽」になってしまったのだろう。
これは朧座のバイラインとタグライン、どちらかに使えそうな気がするのだが、いかがだろうか。