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とりとめもなく心に思うことども

○新作能は、やれば良いというものではない。むしろ、きちんと考えるべきことを考えてから取り組まないと、単なる目立ちたがりの手慰みに終わってしまうと思う。朧座では、例えば「能楽師がこの曲をやりたがるだろうか?」といったことを常に考えている。「私はこれをやりたいのだ!」だけではなく「他の人間もこれをやりたいだろうか?」が大事だ。でないと、所詮私独りがやり続けるだけで終わってしまうだろう。広がりが出ないと思うのだ。

○演出という作業では、どこからどこまでを共通言語として演出家と俳優が共有できるか、食い違いなく一つの概念を一つの言語で相互に送受信できるか、まずそこをお互い明らかにしないといけないと思う(当たり前の事だが、改めて)。もちろん、言語化不可能の領域は当然あるので、何から何までコンピューターの如く理路整然とはいかない。特に、今申楽という未完成芸術ではなおのこと。だからこそ、「ここからここまでは共有できる」という基盤を確認していかなければならない。朧座第二回公演最大の目的である。

○信頼関係がないと演出・演技はできない。信頼関係を損なう程あまりにハード過ぎる演出方法は俗にいう荒療治というもので、おそらく効果はないだろう(場合によっては逆効果かも知れない)。慢性的処方箋が必要な時に、理想に焦って急性的処方箋を出すのも宜しくない。人間であり、心の問題が絡むから、そこはデリカシーをもって臨む必要があると感じた。特によくも悪くも日本人は「事実」より「対人」の民族であるから、演出家は言葉の使い方にセンスティブでなければならない。一方で、その演出家の方法を理解しよう、演出家の言語圏内に入ってこようという姿勢の見えない俳優は舞台世界の一員たり得ないわけだから、シビアな話だがおろされても文句は言えない。以上を要するに、演出サイドと俳優サイド、相互の「歩み寄り」の精神がとても重要だと感じた。

○古典を現代に読み直すというのは朧座に課せられた使命であるが、実はこれは現代人が錯覚しているほどに難しいことではなさそうだ。錯覚の主要なる原因は学校教育の貧困にあるに相違ない。そして、実はそれほど難しいことではなさそうだと言い切れるのは、民族には文化的な遺伝子があると思われるからである。例えば、明日は出撃という状況にある特攻隊員のうち、口語よりも文語を選んで遺書をしたためた人の数は少なくない。単に今と当時とでは教養に差があるという一事では片付けられない問題がそこにはあると思う。和歌を詠もうとするとどうしても文語になってしまう人もいる、それと同じではないのか。民族的な記憶というものは、生きている。そういう大切な記憶を、ハリウッドかどこかに売り飛ばすために英語や米語で喋り散らす卑しい日本人にはなりたくない。私は、アメリカで公開するために英語で喋る戦時中の広島県民を演じよと言われれば、即座にお断り申し上げる。

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2004年08月05日 16:01に投稿されたエントリーのページです。

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