『能って、何?』(松岡心平編、新書館)という本の中に、能楽研究者である松岡氏が観世流シテ方能楽師・梅若六郎氏に行ったインタビューを収めた箇所がある。ちょっと長いが引用してみる。
梅若 ひとつは能役者そのものがサラリーマン化してしまって、収入とかが非常に安定しているというのもありますが、それは時代がこうだからしようがないところもある。ただ、ぼくが思うに能が好きな人が少なくなったということは確かですよね。たとえ飯が食えなくても能が舞えればいいやという奴が少ないという感じがとてもするんです。「仕事」になっちゃっているのかなという気もするんです。
ここまでは異論なし。なんだ、今はそんな能楽師が多いのか、梅若氏頑張れという感じ。問題はこの後に続く箇所である。
──そういうなかで、新作であるとか復曲であるとか、六郎さんには能を動かそ うというような意識が感じられます。
梅若 そうですね。あくまでこれは模索かもしれませんけれども。とにかくいまぼくはお恥ずかしいほど、ちょっと演能の数が多すぎるというくらい舞っているらしいんですけれど……。
──以前、白洲正子さんも苦言を呈していらっしゃいましたね。(笑)
梅若 ありがたいと言ったらありがたいんですけれどね。でも、そういうときに、無理にでも、新作とか復曲とか、逆に積極的にしようと思っているんです。
これを地下の白洲氏が読んだらどう反応するであろうか。女に能はつとまらないと悟って、以後二度と能を舞わなかった白洲氏だが、「本物になって出てきたわ」などと
御立腹でなければ良いのだが…
さて冗談はともかく、この箇所、読んだ当時は今一つピンと来なかった。ところがその後、梅若氏の別の著書を読んでようやく合点の行った事がある。
作家の故・白洲氏が生前、梅若氏に苦言を呈したのは演能の数の多さではなく、正確には新作演能の数の多さであったのだ。新作ばかりやっていないで、古典をやりなさいと諭されたのだという。
そう知ってから先の引用箇所を読むと意味がスッキリ通るのだ。多くの読者にとって「演能の数が多すぎる」その内容が古典ではなく新作なのだという事をこの二氏の会話に補って読むのは結構難しいと私は思う。よくよく読み直せば不可能とは言えないが、不親切である。やはり「(新作・復曲の)演能の数が多すぎる」と、編集時に文脈を補足すべきであったろう。
と、そこで思い至るのが「能楽師に対する精神的遠慮」という重大問題である。
本当に、この本の編集者は、上記の旨気付かずに刊行に至ったのであろうか。あるいは、気付きつつも「面倒な問題」ゆえわざわざ触れずに素通りしたということはあるまいか。
ささいなことをチマチマと疑うようだが、こういうところにこそ敏感でないと私の存在意義がないも同然なので、あえて疑念を表明する次第である。
学者と能楽師の共同作業などとよくいうが、本当に学者たちは能楽師に対し要らざる遠慮なくもの申しているのだろうか。
白洲氏のような歯に衣着せぬ直言居士を失ったことは、能界にとっても大きな損失であったろう。
どうも、「そんなの駄目!」と能に対してハッキリ言える人が今少ないような気がしてならない。「先生、恐れ入ります」みたいな人ばっかりに思えて致し方ない。
梅若氏も松岡氏も能界の明日を占うキーパーソンであられる。私もこれまで両氏の著作からどれだけ勉強させて戴いたことか、はかり知れない。さればこそ、生意気も省みず本心から御意見申し上げた次第。