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2004年12月 アーカイブ

2004年12月02日

応仁元年

久しぶりに、埃をかぶっていた『花の乱』のビデオを引っ張り出して観てみた。
もう十年くらい前にやっていたNHKの大河ドラマである。
私は、この『花の乱』と、あともう一つ、この数年前にやっていた『太平記』とで、室町時代に興味を持ったのだった。こういう私の生い立ちから言わせて戴くと、大河ドラマは歴史教育に重要な役割を果たす場合もあるのだから、NHKはエビジョンイルなどという阿呆な醜聞にまみれていないで、もっと面白くワクワクするような大河を作って戴きたい。

さて、『花の乱』は視聴率こそ低かったものの、私は割合面白いと思って観ていたクチである。私が久しぶりに観た回のサブタイトルは「応仁元年」、つまり京の都を十年間にわたって焼き尽くした応仁の乱勃発の年を描いた回だった。今でも京都で「先の大戦」などというとこの応仁の乱を指すのだとか。古き良き王朝文化はこの戦乱でついに全く息の根を止められたのだから、なんとも凄まじい戦だったわけである。

オープニングの画面を見ていたら、まず「能楽考証 表章」という名が目についた。
放送当時、能楽に深い関心のなかった頃は知る由もなかったが、この表氏は能楽研究の第一人者なのだった。すると今度は「能楽指導 観世清和」というテロップが映し出される。この観世氏こそ、能楽界の最大流派・観世流の宗家であると、これまた後に知ったのだった。

果たして、この回の劇中には、三田佳子氏演ずる主人公日野富子の謡に合わせて大名たちが舞を舞うという、つまり能楽の知識を要する場面があったのだ。
曲は『猩々』であった。
当時は何気なく流し観ていたが、「今申楽」をぶち上げた今はついついしっかり観てしまう。そして、当時は気付く筈もなかった事柄が、今は透けるように見えてきてしまう。

遅い!遅過ぎるのだ、テンポが。
これは江戸時代後期のドラマではない。応仁元年、つまり室町時代中期の話なのである。
表氏は、能の上演時間が室町中期までは現在の半分以下であったことを証明されている学者である。その頃の能時間を100%とすると、室町末期は150%、江戸中期は200%、現在はなんと240%に延びていることを明らかにされた方である。
そういう方が考証の任に当たっておられるのに、何故、何故、日野富子はその240%にも膨れ上がった現在のテンポで『猩々』を謡っているのか!?

何故だろう。何故だろう…
何故、せっかくの表氏の貴重な学説が、ここでは無残に踏みにじられているのだろう。室町時代中期の能の上演形態の再現という、氏の学説が最もよく生かされるべき筈のシーンではなかったか。にもかかわらず、一体、何故…

実は、ここには日本文化の根底に流れる世にもおぞましい因習が見え隠れしているのである。理性の芽を摘み、真なる意味での芸術的精神を荒廃させる、あるのっぴきならぬ邪悪な因習が、チロチロと舌を覗かせているのである。

それにしても、三田氏の謡はなかなかのものであった。
室町時代の将軍御台所が何故か現代のテンポで謡っているという不自然不合理はさておき、劇中、能楽師でもない三田氏の謡で相当の時間を持たせているのである。
台本に「ここで富子、猩々を謡う」というト書きがあって、「私は能楽師じゃないから出来ません」などと意味不明の痴れ言をのたまうそこら三文役者とは脳の構造が根本的に違うのであろう。
さすが、こういうところを大女優の貫禄とでも言うのであろうか。
否、こんな事で大女優などと評しては、おそらく世の多くの大女優から叱責をこうむるに相違ない。

「私には出来ません」などと平然と言い放って恥じぬ自称俳優が悉く廃業すればそれで事は穏便におさまるのである。
さもなければ、世の多くの劇作家、演出家、さてまたそういう自称俳優と舞台上で絡まざるを得ぬ他の俳優らの底知れぬ苦悩は絶える事があるまい。
むろん、そんな自称俳優の学芸会を見せつけられる観客に至っては、たまったものではなかろう。

底辺を基準に物事を考えてはならない。
レベルが下がってしまうからだ。

時は応仁元年でもあるまいに、良からぬ制度に良からぬ人々、誠に目を覆わしめるものがある。一天の大乱となるべきか。

2004年12月05日

能は五流の専売特許か

能というのは、果たして五流の専売特許なのであろうか。

五流というのは室町時代から続いている観世・宝生・金剛・金春、それに江戸時代になって出来た喜多の五流派の事である(この五流はいずれもシテ、つまり能における主役を専門に担う流派であり、他にも脇役を担う流派、狂言を担当する流派、それに能の器楽である囃子を司る流派と、実際には全部で二十余りの流派が存するのであるが、煩わしいのでここではひっくるめて五流と呼んでおく事にする)。

能と言えば、この五流のいずれかに属するプロの能楽師またはそれに準ずるアマチュアによって演ぜられるものとまことしやかに信ぜられている。が、実はこれは全く事実無根の謬説なのだ。
それを証明するのが、今も山形県に伝わる黒川能や京都壬生寺の壬生狂言に代表される地方の能・狂言の存在であろう。

さる事情通に聞いた話では、かつて千駄ヶ谷の国立能楽堂に初めて黒川能が招聘された折、五流の一部能楽師の間には「なんであんなものが」と眉をひそめる向きもあったという。さもありなんと思わせる話である。

私は、観客の間に息づいている親しまれているという意味においては、断然黒川能の方に軍配が上がると思う。たとえその観客の大多数は黒川一帯の人々なのだとしても。
演劇が演劇であるためには、何よりもまず、それが俳優と観客との間において生きていなければならない。評論家や老人ばかりが、舞台そっちのけで謡本(能の台本)とにらめっこしながら、「眠い能ほど良い能だ」などと怪しげな説をもてあそんで居眠りに及んでいる五流の客席を散見するにつけ、果たしてこういう今日の状況を招いたのは全て観客側の責任であろうか、こういう観客を育ててしまった五流の側に非はないのかと、私などはつい問わずにはいられない。

そもそも「能」とは、元はと言えば広く芸能を意味する言葉であった。
そういう意味ではジャニーズも吉本も皆、ある種の能なのである。
実際、昔の能は今と違いアイドル的な要素もお笑い的な要素も持っていた。
そういう能という言葉がいつの間にか、五流というものに独占され、評論家や老人達に蝕まれ、一般とは甚だしく乖離させられているというのが今日の能の実態なのである。もはやその痛々しい姿は、無形文化財の名こそ相応しけれ、果たして俳優と観客との間を生きる「演劇」の名を冠し得るものかどうか、甚だ微妙なところに差し掛かっていると言わねばなるまい。

重ねて言う。能は広く芸能を意味していた。
ということはつまり、本来、様々な意味において能はもっと自由なはずだ。
能は、もっと色々な事を試して良いはずだ。探って良いはずだ。
まだまだ、多様な可能性があるはずだ。

くれぐれも、「五流」に御用心と申し上げておきたい。
一見、五流をただただ口汚く罵っているようだが、さにあらず。
心ある楽師にはきっとお分かり戴けるはずである。

2004年12月17日

「能楽の能」「申楽の能」

もともと、私に「今申楽」なる発想は存在しなかった。
あくまでも新作能のつもりで、つまりはプロの能楽師にいつか正規の能として演じてもらう事を想定して、『香炉峯』を初めとする幾つかの能の台本を書いてみたのである。
ところがどっこい、運命は私が当初思い描いていた路線から大きく大きく飛躍していくのであった。  

芝居の役者といわず能楽師といわず、「俳優」という自覚を持つ者達の手で、今日伝わる「能楽の能」をなぞるのではなく、既に失われた「申楽の能」を新たに創り直す──我ながら遠大と言おうか無謀と言おうか、とにかく神をも怖れぬ所業に手を染めてしまったのである。

そして、私はこの先いかなる暴風雨に見舞われようと、この道を突き進む事に決したのである。

さて、そこで、改めて問われねばならぬ。厳に厳に問われねばならぬ。
「今申楽」とは、そも、何であるか。
「当世の申楽能」、と最近の私は答えるようにしている。
では、「当世の申楽能」とは、詰まるところ、何か。
この問いに何とか答えを見出そうと、日々熟考中である。
否、考えるだけでは駄目だ。その答えを、舞台芸術という形でしかと観客の五感に供する事、それが我ら朧座の一大使命なのだから。

先日、故・観世寿夫氏の著作を読んでいて、考えさせられた事がある。
(観世寿夫氏は、「戦後を代表する天才能役者」などとよく言われる。しかし、氏の没年の三年前に生まれた私は、残念ながら氏の舞台に生で接した事がない。が、そんな私にも、氏の遺した秀抜な能理論を読む幸福は与えられている)
氏は、観阿弥の書いた能『自然居士(じねんこじ)』について、次のように述べている。

「(前略)現行曲の中で比較的古い時代の作品、つまり能が足利義満に認められて観客の対象が武家貴族に移行する前に創られた曲ですから、物語もその当時の社会を生き生きと描いており、俗語を交じえた活発な会話のやりとりによって進められてゆく等、他の曲では見られない面白さです。たとえばこの曲の中ほどで、自然居士が人買いに向かって、『ああ、船頭殿のお顔の色こそ直つて候へ』といって揶揄すると、『いやいやちつとも直らず候』というところなど、当時の観客はどっと笑ったのだと思います。」(『観世寿夫著作集 一 世阿弥の世界』平凡社)

そして、氏は「現在私達が能を仕事として、世阿弥の創り出した幽玄の美の深さを感じて敬服すると同時に、この曲に現されているような観阿弥の生き生きした庶民性を能の中に見いだすことが、最も重要なことであろうと感じるしだいです。」という言葉でこの文章を締めくくっている。

が、その氏にして、結局『自然居士』を客が「どっと笑」うような本来の作品性に復し得たかと言えば、そんな話はついぞ聞いた事がない。先述の如く、私は氏の舞台に接していないので断定的な事は言えないが、氏の演ずる『自然居士』を観て、「どっと笑った」観客というのはおそらく一人もいなかったのではあるまいか。
否、氏ならずとも、『自然居士』を観阿弥の昔の如く、笑いありの庶民劇に戻すという事は、今日の能の伝承形態から言っても非常に絶望的な難事であるし、また現代の観客を「どっと笑」わせるには、そもそも観阿弥の台本のままではちと無理があるとも言えるかも知れない。これは何も観阿弥のギャグセンスを難じているのではない。時代が600年ほど異なる以上は多少の修正は必要かも知れぬと提案しているまでの事である。(しかしその一方で、この人買いを、例えば故いかりや長介氏などといった名喜劇俳優が演じた場合には、あるいは観阿弥台本のままでも行けるかも知れぬ、などとも考える。)

閑話休題。
要は、能が「能楽の能」である限りは、どうしても達し得ない演劇的真実──例えば『自然居士』なら、本来客をどっと笑わせねばならぬ、といった事柄──がありそうに思う。
と、この一事をこそ言いたかったのである。
もしも能が「申楽の能」であるならば──例えば、『自然居士』の人買いを、能楽師ではなく、ものは試しに喜劇俳優に演じさせてみたとしたら…そんな自由を、能という芸能が持っているとすれば…

何やら、今申楽のヒントはここら辺りにありそうな、そんな気がする今日この頃。

2004年12月18日

新芸術創造への希求

「中世の将軍の御所」のイメージが欲しくて、このところ昔のNHK大河ドラマのビデオを引っ張り出しては観ている。一応、時代考証を一流の学者たちが担当しているので、当時のビジュアル的なイメージを膨らませるにはそこそこ安心して観られるのだ。

日本史の教科書に「幕府」なんて言葉が出てきても、その「幕府」が具体的にどういうところで、どんな床で、どんな壁で、どんな雰囲気であったかということになると、これはもう教科書ではお手上げですからね。

今回観たのは『太平記』。私が高校の時にやっていたものだ。
私はこのドラマに出演していた藤木孝氏(坊門清忠役)・麿赤兒氏(文観役)らの物凄い名演怪演に打ちのめされ、すっかり南朝好きになってしまった。南北朝時代というもの、演技というもの、この二つをいっぺんに私の心に焼き付けてくれた貴重な番組である。藤木氏も麿氏も、舞台の世界に疎かった当時の私はこのドラマで初めてその存在を知ったのだが、実は舞台の世界ではお二方とも大ベテランであられたのだ。(そういう幸福な経験があるから今でも、へったくそな方々が大河を荒らしているのを観ると、怒りを通り越して深い悲しみを禁じ得ないのである。)

で、この番組の「芸能考証」を務めておられたのが、今年亡くなった狂言師の野村万之丞(当時は野村耕介)氏である。氏は、本業(?)の狂言のみならず、様々なジャンルの舞台芸術で活躍された。特に、失われた古の芸能を今に蘇らせようと、多くの復興運動に邁進された方だった。
氏の活動が、どこまで正確に、過去に滅びた幻の芸能の真の姿に迫ったものであるのか、詳らかにする力は私にはない。
一つ言えるのは、氏が芸能考証の任に当たったドラマ『太平記』、その劇中に描かれる雑芸シーンの、何と素晴らしく魅力的なことか。
ああ、当時の雑芸とはもしかしたらこういう感じだったのかも知れない。そう思わせる見事なシーンになっている。

どこまで正確な復元であるかはわからない(実は、誰にもわからないのだと思う)。ただ、一つの魅力的な復元ではあったと言えるだろう。野村氏が生涯追求された作業というものは。

さて、これら先人の跡を眺めつつ、思う事がある。
朧座がなさねばならぬ事、それは「昔申楽」の復元ではなく、「今申楽」なる新芸術創造への飽くなき希求であるということだ。

「申楽」の本質を見極めた上で、新たな「申楽」を創るのだ。

2004年12月21日

記憶の延長

とある芸術系の雑誌を読んでいて驚いた。
学生時代の友人カオル(仮名)の写真が何枚も大きく取り上げられている。
最初、誰かに似ていると思ってよく見たら、カオルである。間違いない。
カオルの他にもう一人、見知らぬ人物と二人で写っている写真もある。
どこかの島で撮影したものであろうか。カオルと今一人の人物、二人して砂浜で楽しそうに遊んでいる光景である。 

カオルの顔を見たのは久しぶりである。

カオルは学生時代、同じ学科の後輩であり、同じ部活の後輩でもあった(日本語日本文学科いわゆる国文科・演劇部)。
一緒に水商売のアルバイトなんかしたこともある。
気さくで優しい人間だった。

最後に出会ったのはいつだったろう。
数ヶ月前、同じ演劇部だった人間から突然電話を受けた。
カオルは死んだのだという。
どうやら、自分から、海に飛び込んだらしい。

真相は私にはよくわからない。
が、今、写真とともに掲載されている文章を読んで、そしてまたカオルの人となりを思い出してみて、ある程度は察せられるようにも思う。
文章は、たぶん、写真のもう一人の人物の手になるものなのだろう。
カオルとの思い出を振り返り、その死を悼む詩が綴られている。
カオルは芸術人間だったから、こういう詩人のような人物がカオルのまわりにはよくいたものだ。

この詩を読んでいて、私もカオルの事を思い出した。
カオルは死んだ。しかし、この詩の作者や読者の記憶の中では生きているのだ。
死には二種類ある。物質的な死と、人々の記憶における死と。
そして私は、清少納言を思い出した。
彼女も、若くして亡くなった最愛の人物(定子という名の皇后)を、その著書『枕草子』の中に生かしている。そして彼女自身もまた、『枕草子』の中に、定子とともに生きている。
私は、この二人に、朧座の第一回公演の主役と準主役になってもらった。
が、あろうことか、台本に一箇所、痛恨のミスがあった。「歴史」を借りているのに、その「歴史」に反するような台詞とト書きを私は書いてしまっていたのだ。朧座演出部の陳俊宏だけは、台本を読んだ当初、「枕草子にこういう事実は描かれているのか」と、その箇所に疑義を唱えたのだが、私は「想像で補った」とだけ答えて、それほど深く考えなかった。それがいけなかった。また、さすがの俊英陳も、「いや、それはよくない。この箇所は何が何でも書き換えるべきだ」とまで断言したわけではなかった。

初めてそれを私に伝えた人物、それは実は清少納言その人なのである。
否、彼女も直接私に台本の非を難じるということ(演劇界で言うところの駄目出し)は躊躇われたらしく、それを少し遠慮がちな方法で伝えて来たのだった。
初め、彼女の「駄目出しの意向」を受け取ったのは、私ではなく、私がかつて大変お世話になったさる仏教僧である。その方が、本番二日目の夜、電話で知らせて下さったのだ。「台本のどこか一箇所に、重大な問題がある。事実と異なる、歴史に反する、清少納言さんがお困りの箇所が、どこか一箇所…」
その方には、もとより台本をお渡ししていないし、第一粗筋すらご存知でない。そこで大まかに内容をお伝えした上で、お尋ねしてみた。「あるいは…清少納言の定子皇后に対する感情を、ある種の恋と捉えていること、枕草子を一冊のラブレターだったと解釈していること、この辺りの事を清少納言さんは指していらっしゃるのでしょうか」
私は、恐る恐るこの質問を発した時の恐怖と緊張を今に忘れない。おそらく、一生忘れないであろう。もし、その方が次の瞬間「はい、そうです。そこのところを清少納言さんは困る、変えろと仰っているのです」とお答えになっていたとしたら…
これは、一言で言えば「作品の全否定」に当たる。台本を一から書き直さねばならぬという事を意味する。しかもその駄目出しは、原作者と言おうか主演女優と言おうか、いやいやそういう安っぽい現代的役職名では到底表し尽くせぬ偉い偉い雲の上の御方(思い切って言うが、ひょっとすると観客より偉い)が、聖職者を介して天から告げ給うた聖なる駄目出しなのである。灰皿が飛んでくるとか言うレベルではないのである。
しかし、次のステージまで残り正味10時間。これでは台本を一から書き直すというより、実質的には「公演中止」という最も恐ろしい選択肢も浮上してきてしまうではないか。
と、そんな最悪の展開をも脳裏に浮かべつつ、先の問いをば発したのであった。
私の恐怖と緊張、どうかこの拙い文章からお汲み取り戴ければ幸いである。

が、しかし、その方の御返事は、私が怖れたものとは異なっていた。
「いいえ、そういうことではありません、清少納言さんが言って来られているのは。どこか一点、太夫さんが、史実とあべこべの事を書き加えてしまっている筈なんです。そこだけ変えれば、あとは大丈夫な筈です」

史実とあべこべの事を書き加えてしまっている…
そうか、あそこか。なるほど、あそこに違いない。そう言えば前に陳も指摘していた、あの箇所!
ようやく、気が付いた。と同時に、すっきり納得がいった。
なるほど、なるほど、なるほど…
ごめんなさい、清少納言さん。
あなたは、私なんかがうっかり思い描いていたよりも、もっともっと素晴らしい方でいらっしゃいました。
優しくて、知的で、そして本当に友達思いで…
大変、失礼致しました。心よりお詫び申し上げますとともに、遅ればせながら、次のステージ以降、問題の箇所につきましては訂正させて戴きましたこと、御報告申し上げます。

この文章をお読みになって、あまりに宗教的、あまりに非科学的、到底信じ難いとの印象をお持ちの向きも少なからずおられるかも知れぬ。
が、せめて、これだけはどうか信じて戴きたい。
ただ、一箇所。それによって、ストーリーが大きく一変するというような性質のものではない。一見、台詞やト書きの字句を多少言い換えたに過ぎぬような、誠にささやかな微修正と、人の目には映ずるかも知れぬ。

しかし、この訂正によって、作品のクオリティは確実に上がったのである。

こういう事を作者本人が書くとは誠におこがましい限りである(真の作者は清少納言であり、朧太夫は代筆者のようなものに過ぎぬ。実は私はそういう認識に立っているのだが)。また訂正前のステージを御覧下さったお客様には、ただただお詫びを申し上げるより他ない。が、将来この記録が、あるいは何らかの役に立つ事もあるかも知れぬと願って、ここに正直にしたためておきたいと思う。

重ねて言う。
清少納言は生きている。
少なくとも、私や共同演出の空也坊、他何人かの記憶の中に生きている。
ということは、自ずから、皇后定子も生きているのである。
定子は少納言の記憶の中に生きているのであるから。

カオルに手向けられた何人かの詩。
そこから私は清少納言をも思い出したのだった。
そして、ふと思いついた、それは、
「記憶の延長。それが、申楽の本質ではないのか。私の仕事ではないのか」
という仮説である。

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