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記憶の延長

とある芸術系の雑誌を読んでいて驚いた。
学生時代の友人カオル(仮名)の写真が何枚も大きく取り上げられている。
最初、誰かに似ていると思ってよく見たら、カオルである。間違いない。
カオルの他にもう一人、見知らぬ人物と二人で写っている写真もある。
どこかの島で撮影したものであろうか。カオルと今一人の人物、二人して砂浜で楽しそうに遊んでいる光景である。 

カオルの顔を見たのは久しぶりである。

カオルは学生時代、同じ学科の後輩であり、同じ部活の後輩でもあった(日本語日本文学科いわゆる国文科・演劇部)。
一緒に水商売のアルバイトなんかしたこともある。
気さくで優しい人間だった。

最後に出会ったのはいつだったろう。
数ヶ月前、同じ演劇部だった人間から突然電話を受けた。
カオルは死んだのだという。
どうやら、自分から、海に飛び込んだらしい。

真相は私にはよくわからない。
が、今、写真とともに掲載されている文章を読んで、そしてまたカオルの人となりを思い出してみて、ある程度は察せられるようにも思う。
文章は、たぶん、写真のもう一人の人物の手になるものなのだろう。
カオルとの思い出を振り返り、その死を悼む詩が綴られている。
カオルは芸術人間だったから、こういう詩人のような人物がカオルのまわりにはよくいたものだ。

この詩を読んでいて、私もカオルの事を思い出した。
カオルは死んだ。しかし、この詩の作者や読者の記憶の中では生きているのだ。
死には二種類ある。物質的な死と、人々の記憶における死と。
そして私は、清少納言を思い出した。
彼女も、若くして亡くなった最愛の人物(定子という名の皇后)を、その著書『枕草子』の中に生かしている。そして彼女自身もまた、『枕草子』の中に、定子とともに生きている。
私は、この二人に、朧座の第一回公演の主役と準主役になってもらった。
が、あろうことか、台本に一箇所、痛恨のミスがあった。「歴史」を借りているのに、その「歴史」に反するような台詞とト書きを私は書いてしまっていたのだ。朧座演出部の陳俊宏だけは、台本を読んだ当初、「枕草子にこういう事実は描かれているのか」と、その箇所に疑義を唱えたのだが、私は「想像で補った」とだけ答えて、それほど深く考えなかった。それがいけなかった。また、さすがの俊英陳も、「いや、それはよくない。この箇所は何が何でも書き換えるべきだ」とまで断言したわけではなかった。

初めてそれを私に伝えた人物、それは実は清少納言その人なのである。
否、彼女も直接私に台本の非を難じるということ(演劇界で言うところの駄目出し)は躊躇われたらしく、それを少し遠慮がちな方法で伝えて来たのだった。
初め、彼女の「駄目出しの意向」を受け取ったのは、私ではなく、私がかつて大変お世話になったさる仏教僧である。その方が、本番二日目の夜、電話で知らせて下さったのだ。「台本のどこか一箇所に、重大な問題がある。事実と異なる、歴史に反する、清少納言さんがお困りの箇所が、どこか一箇所…」
その方には、もとより台本をお渡ししていないし、第一粗筋すらご存知でない。そこで大まかに内容をお伝えした上で、お尋ねしてみた。「あるいは…清少納言の定子皇后に対する感情を、ある種の恋と捉えていること、枕草子を一冊のラブレターだったと解釈していること、この辺りの事を清少納言さんは指していらっしゃるのでしょうか」
私は、恐る恐るこの質問を発した時の恐怖と緊張を今に忘れない。おそらく、一生忘れないであろう。もし、その方が次の瞬間「はい、そうです。そこのところを清少納言さんは困る、変えろと仰っているのです」とお答えになっていたとしたら…
これは、一言で言えば「作品の全否定」に当たる。台本を一から書き直さねばならぬという事を意味する。しかもその駄目出しは、原作者と言おうか主演女優と言おうか、いやいやそういう安っぽい現代的役職名では到底表し尽くせぬ偉い偉い雲の上の御方(思い切って言うが、ひょっとすると観客より偉い)が、聖職者を介して天から告げ給うた聖なる駄目出しなのである。灰皿が飛んでくるとか言うレベルではないのである。
しかし、次のステージまで残り正味10時間。これでは台本を一から書き直すというより、実質的には「公演中止」という最も恐ろしい選択肢も浮上してきてしまうではないか。
と、そんな最悪の展開をも脳裏に浮かべつつ、先の問いをば発したのであった。
私の恐怖と緊張、どうかこの拙い文章からお汲み取り戴ければ幸いである。

が、しかし、その方の御返事は、私が怖れたものとは異なっていた。
「いいえ、そういうことではありません、清少納言さんが言って来られているのは。どこか一点、太夫さんが、史実とあべこべの事を書き加えてしまっている筈なんです。そこだけ変えれば、あとは大丈夫な筈です」

史実とあべこべの事を書き加えてしまっている…
そうか、あそこか。なるほど、あそこに違いない。そう言えば前に陳も指摘していた、あの箇所!
ようやく、気が付いた。と同時に、すっきり納得がいった。
なるほど、なるほど、なるほど…
ごめんなさい、清少納言さん。
あなたは、私なんかがうっかり思い描いていたよりも、もっともっと素晴らしい方でいらっしゃいました。
優しくて、知的で、そして本当に友達思いで…
大変、失礼致しました。心よりお詫び申し上げますとともに、遅ればせながら、次のステージ以降、問題の箇所につきましては訂正させて戴きましたこと、御報告申し上げます。

この文章をお読みになって、あまりに宗教的、あまりに非科学的、到底信じ難いとの印象をお持ちの向きも少なからずおられるかも知れぬ。
が、せめて、これだけはどうか信じて戴きたい。
ただ、一箇所。それによって、ストーリーが大きく一変するというような性質のものではない。一見、台詞やト書きの字句を多少言い換えたに過ぎぬような、誠にささやかな微修正と、人の目には映ずるかも知れぬ。

しかし、この訂正によって、作品のクオリティは確実に上がったのである。

こういう事を作者本人が書くとは誠におこがましい限りである(真の作者は清少納言であり、朧太夫は代筆者のようなものに過ぎぬ。実は私はそういう認識に立っているのだが)。また訂正前のステージを御覧下さったお客様には、ただただお詫びを申し上げるより他ない。が、将来この記録が、あるいは何らかの役に立つ事もあるかも知れぬと願って、ここに正直にしたためておきたいと思う。

重ねて言う。
清少納言は生きている。
少なくとも、私や共同演出の空也坊、他何人かの記憶の中に生きている。
ということは、自ずから、皇后定子も生きているのである。
定子は少納言の記憶の中に生きているのであるから。

カオルに手向けられた何人かの詩。
そこから私は清少納言をも思い出したのだった。
そして、ふと思いついた、それは、
「記憶の延長。それが、申楽の本質ではないのか。私の仕事ではないのか」
という仮説である。

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コメント (2)

かわじり宏昭:

結構評判になった本だそうですが、ポーラアンダーウッド著(?)星川淳訳『一万年の旅』問いう本を読み始めました。アメリカ・インディアンのイロコイの語り部である彼女がしたためたのは、正に「記憶」一万年以上もの間口から口に、つまり心から心へと刻み渡された記憶のようです。本の中では、人々が過去の出来事やそれぞれの考えを披露しあう、非日常の特別な場面が度々印象的に現れます。きっと日常の合間に持たれたそういう特別な分ちあいの場面が、特に記憶に深く刻まれ、受け継がれて来たからでしょう。そして、それは日常という道行きの確かさと危うさを確認する、大切な一里塚駄ったのではないでしょうか。余暇を楽しむ人の輪もあったでしょう。同時に部族の存続を左右する選択を控えた、儀式としての人の輪もあったでしょう。能楽にしても、演劇にしても、そういう記憶と命を分かち合うライブという意味合いがあるのではないかと思います。

朧太夫:

かわじりさん、コメント有難うございました。
「記憶と命を分かち合うライブ」という表現に、とても心惹かれました。かわじりさんのこの表現は、今申楽とは何かを考える上で、非常に大きなヒントになりそうです。
今、私も日々、今申楽とは何かを考え続けております。

アメリカ・インディアンの世界では、一万年もの間、記憶は延長されて来たのですね。それを思えば、清少納言はたった千年前の人物。つい最近の方という事になりますね。
そう思うと、なんだか楽しくなってきてしまうのは、私だけなのでしょうか?

日本は、明治維新の際、最新の外来文化を採り入れるかわりに、自国の古くからの記憶を切り捨ててしまいました。その意味では、20世紀は日本にとって「記憶喪失の百年」だったようにも思います。
しかし、近頃は、失われた記憶を取り戻そうという機運も芽生えてきたようです。
この機運を、単なる復古趣味的お遊び的ブームに終わらせず、確かな芸術と思想をもった新時代の幕開けとしたい。
そして、微力ながら、朧座もその幕開けの一担い手でありたいと願っております。

世界では、果たしてこれが21世紀の姿かと、目を覆いたくなるようなテロや侵略戦争が横行しています。この現状を見る限り、人間は進化ではなく退化の道を辿っているかのようです。
そして、日本もその戦争に加担しております。
また、一方では国内外で自然災害が猛威を振るい、あたかも人類の環境汚染に地球が怒っているかのようです。そして、人類は未だこれになす術を知りません。
こういう厳しい時代に、今申楽朧座は、果たして何をなすべきか。

物質に偏し過ぎた現代と別れを告げ、真なる意味での人間性の回復がなされなければならないと考えます。

それは演劇の世界でも同じことです。
なぜ今の日本では伝統演劇も現代演劇も大きな力を持ち得ないのか。それは伝統演劇も現代演劇も、「家元制度」だの「リアリズム」だのという些事に拘泥し続けているからではないか。
今の日本は、「記憶と命を分かち合うライブ」といった「祭祀性」をこそ本当は求めているのではないかと思うのです。それが、伝統演劇にも現代演劇にも失われている。

先の長い旅ですが、朧座は歩み続けたいと思います。

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2004年12月21日 02:14に投稿されたエントリーのページです。

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