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2005年04月 アーカイブ

2005年04月12日

頼家と政子の旅が始まる

今申楽第二回公演『修禅寺』、その脚本第一稿をつい先程書き上げたところである。

先日、ちと山梨に散歩に出かけた折、久方ぶりに甲斐善光寺に参詣した。で、すっかり忘れていたのだが、この寺の宝物館には源頼朝及び実朝の木造坐像が安置されていたのである。
ここで彼らの像に思いがけず再び出会ったのも、何かの縁かも知れぬ。そう思って、彼らに、今申楽第二回公演の成功を祈念する事にした。
先ず、頼朝像に向かって。「御長男並びに令夫人を取り上げさせて戴きます」
次に、実朝像に向かって。「兄君並びに母君を取り上げさせて戴きます」
そうして、最後にこの二体の将軍像に向かって。「何卒宜しくお願い申し上げます」

「あの二人を頼む」
二体の将軍像からも、そう、頼まれたような気がした。

話は変わって、今年のNHK大河ドラマ『義経』には、頼朝夫婦も登場しているのだが、時間がなくてあんまり真面目に観ていない。たまにはチェックしとくかと思ってテレビをつけたら、いきなり平幹二朗(後白河院)・夏木マリ(丹後局)両氏の顔がアップで画面に映し出された。
うわっ妖怪、私が見たいのは今回はあなた方じゃないんですが…と思ったらすぐに伊豆のシーンに移った。そうそう、こっちをチェックしときたいのである。
つまり、他の作家や脚本家が、京都じゃなくて東国ってものをどう描いているかに、今はいささかの関心があるわけだ。
頼朝・政子・時政(それぞれ中井貴一氏・財前直見氏・小林稔侍氏)が、平家に叛旗を翻そうとかなんとか、謀議している場面である。うーん、政子って、頼朝の生前からあんなに政治家然としてたんだろうか…個人的にはやや疑問。しかしともかく、主役の義経チームより、こっちの連中の方がなんだか存在感があるなあ…
そのうち、万寿(後の頼家)も出て来るのであろうか。

というわけで──今申楽第二作『修禅寺』は、源頼家と北条政子、この親子の物語である。
ともかく、第一稿は上がった。これから、頼家と政子の旅が本格的に始まるわけである。
執筆に今までのところ、約九ヶ月を要した。
この間、朧座衆の面々からは、様々の有難い助言と激励とを戴いた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

また、友人のM氏には、別して謝意を表したい。私は、彼女との交流の中で、自分という者が今回の台本を書くに当たっての指針を見出だす事しばしばであった。

2005年04月16日

舞台を映像で流す意義

テレビで桂三枝氏の新作落語『お忘れもの承り所』を観る。
すごく面白かった。ああいう芸は寄席で直に拝見したかった。そういう気になる番組だった。

そういう意味では、テレビも使い方次第かなあと思う。
劇場に足を運びたい、生で観たい、と、そう視聴者に思わせる事が出来れば、舞台作品を映像で流す事にも一定の意義はあるわけだ。

2005年04月22日

一日僧体験記

先日、関西のさる門跡寺院にて、劇団大樹主宰・川野誠一氏とともに一泊二日の僧体験を終えて来た。川野氏には、当朧座にも座衆として御参加戴いている。

涼しい土地柄のせいか、その寺の桜は今がちょうど見納めという頃であった。鶯のさえずる中、桜が庭の池に音もなく散り敷くのを眺めながら、座禅を組んだり殿舎のお掃除をお手伝いしたり、はたまた御門跡の御法話を拝聴したりした。否、拝聴というよりも、恐れ多い表現ではあるが、御門跡と膝を突き合わせて対話させて戴いたという方が近いと思う。実に気さくな御門跡でいられたが、そのお話は我々にとって、人間として、また演劇人として、得るべき多くの示唆に富むものであった。
この度の感想を書き出すときりがないし、また上手く文章化できるほど気持ちの整理がまだついていないという部分もある。が、個人的に、大変印象に残っている事を、ここに二点ほど御紹介する事にしたい。

御門跡はお話の最中、「居抜く」という言葉を何度かお使いになった。普通「抜く」という補助動詞は「やり抜く」「勝ち抜く」など意志的動作に使われるのに、御門跡は「居抜く」事の大切さを説かれるのである。
で、そのお話が一段落ついたところで私が「先の、御門跡の言われた居抜くという事が大変印象に残りました」と申し上げたところ、御門跡は、居抜くなんて言葉を発した事をすっかり忘れていられるのだ。
私はついさっき自分が言った事でもよく忘れてしまう、何故ならその時その時感じた事を感じたままに言っているから、との事であった。
そして、常に考えているのは、お二人が今回ここに来て、仏様と縁を結んで良かったなあと思って帰って戴く、例えば、「ああ、庭の桜が綺麗だったなあ」と、ただそう思って帰って戴くだけでも良い。考えているのは、ただそれだけだとも仰った。

実を言えば私は、この御門跡の在り方に、俳優としての一理想像を観た思いがした。
台本に書かれた台詞も演出に言われた事も最後には全て忘れて、ただ、その時その時感じた事を感じたままに言う。常に考えているのは、己に与えられた役を全うする、ただそれだけ──そんな芝居が出来たら、どんなに素晴らしい事であろう。

私も、御門跡に見習って、この先「朧太夫」で居抜いて行きたい。そう、強く思ったのだった。

今一つ。その御門跡が、非常に印象深い表情をお見せになった瞬間がある。
清少納言の話を、私が御紹介申し上げた時の事である。昨年、私どもは彼女を主役とした演劇を行った。物語の舞台がこの近くなので、役者や何人かのスタッフでこちらの宿坊に合宿もさせて戴いた。そして本番中、どうも彼女がいらしたのではないかと思われる出来事があった──と、概ねそのように申し上げた瞬間、目頭を押さえて、それは確かに来たね、と、そう仰ったのであった。

(そして思えば、この門跡寺院のある地域一帯は、実は今申楽次回作『修禅寺』とも浅からぬ縁があるように思われるのだが、それについては今は措く事とする)

何はともあれ──私は朧太夫として、あるがままに居抜いて行く。
ま、ほどほどに(これもまた、御門跡の教訓である)。
そう、神仏に誓って、東京に帰って来たのだった。

御門跡をはじめ、この度お導きを賜った諸先生方に、心より御礼を申し上げたい。
また、御出演の公演が終了したばかりという強行軍にもかかわらず、快く御一緒下さった川野さんにも、あわせて厚く御礼申し上げたい。
一日僧体験。実に、貴重な体験であった。合掌。

2005年04月23日

一連の反日騒動に思う

私は、この朧座を旗揚げしてからというもの、自分が昔学校で受けた教育、特に歴史教育を、甚だ悔やむところが大きかった。思いつくままに今申楽と名付けたこの道は、歩を進めれば進める程、己がかつて教わった歴史学(いわゆる戦後歴史学)がいかに著しく偏ったものであるかを、まざまざと私に思い知らせて行くのである。
既に井沢元彦氏らによって指弾されて久しいが、今の日本史教育には思想的・宗教的見地が致命的に脱落している。端的に言えば、天皇に触れたくない、触れる事それ自体が天皇賛美だ、皇国史観の復活だ、などという埒もない戦後左翼病の一症状なのである。

ところがここ最近は、この戦後歴史学にも、一抹の良さはあったのだなと感じている。
韓国や中国における、一連の反日騒動を見ていて、そう思うのである。
もしも仮に、私が戦前の教育など植え付けられていたとしたら、あの騒ぎを見て、正直、相当頭に血が上ったであろうと思われるのである。はからずも、戦後歴史学という強力な熱冷ましを頭のどこかに持ち合わせているおかげで、ああいう不愉快な風俗を見ても、こちらは理性を失う事なく冷静を保っていられるのではないか。

これは昨今のアメリカを見ていても痛感される事であるが、人間、品は保ちたいものである。

私は、今申楽という道を歩むうちに、ますます日本という国が好きになった。しかし、それでもなお、戦前戦中の日本の行動を美化する気には到底なれない。戦後、多くの日本人が「もう嫌だ、戦争なんて本当に嫌なものだ。あのような経験を二度と繰り返してはならない」という痛切な思いから、自浄的歴史観を醸し出して行った事自体は決して間違っていないと私は考える。かかる歴史観は、実は、慎み深く和を尊ぶ日本人的心情に根差していると思うからだ。

近年は、そうした自浄史観を自虐史観と呼び、声高に愛国を叫ぶ風潮も散見されるが、どうも私は好きになれない。そういうのは本当の愛国者のやる事でない、ここ日本では。と、思う。
日本というのは、もっと静けく清やかに愛でるべき国柄である。

ただ、元は自浄に発した態度が、いつしか見境をなくして自虐に陥るという極端症、これまた侮り難い弊害をもって戦後の日本人の思想を毒してきた傾向は否めない。かくして天皇は悪だ、害毒だと決め付けているうちに、テレビの時代劇に出てくる京都の公家はみな妖怪化してしまった。そうして相対的に、今度は武家こそ人民の代表などと錯覚されて今日に至る訳だが、思えば愚かな話である。

もはや、戦前とか戦後とかいういささか古ぼけた基準を超えて、新たな国意識を探るべき時に来ていると思う。

2005年04月25日

ポール牧氏を偲ぶ

ポール牧氏が亡くなった。報道によれば、酒と抗鬱剤をチャンポン飲みした翌日の自殺であったという。

氏は私にとって、不思議な芸人さんであった。
氏の事を、特別によく知っている訳ではない。「指パッチン」くらいしか知らない。
しかし、ブラウン管で時折見かけた折など、氏は奇妙に目が離せぬ存在であった。
こういう事を見抜く目だけは、私、人一倍敏感なのだが、氏は「何かやらかす顔」なのであった。
何かとんでもない事を、場合によっては平然と為しおおせてしまうような、ある種の妖気みたいなものが、氏の風貌にはいつもそこはかとなく垣間見えた。私はそんな気がする。

それが、自殺という不幸な結果に結び付いてしまったのであろうか。

愛する者とか、愛する表現とか、そういうものはなかったのであろうか。
死にたくなるという気持ちは、私の場合、はっきり言って判らないでもない。特に、うまい事ものが書けずに悶々としている時とか、主宰などという因果な稼業を始めたせいで人に嫌われ憎まれる時とか、あとは過去に負った心の致命傷なぞをふと思い出してしまったりとか、そんな時は私もそれなりに人生嫌になってみたりする。まあ、こういう事を書いていると自己憐憫めいてくるのでこの辺にしておくが、有り体に言ってそんな具合である。そういう時、昔は多少、薬なんかも飲んだりしたが、朧座が走り出してこの方、飲んでいない。薬を飲む前に、やらなければならない事が今の私には山のようにあるからだ。

今、私は生かされているのである。朧太夫として。
そんな私は、途方もない幸せ者である。
台本が書けぬだの、見渡す限り敵ばかりだの、昔の傷が癒え切らぬだの、そんな些事にこだわっている暇なんぞ、ありゃしないのである。

おそらく、他人の計り知り得るところを遥かに遥かに越えているのであろう。ポール氏の抱えておられた苦しみは。
心より、御冥福をお祈り申し上げる。

宝は日々の散策の中に

今日、皇居に宮内庁楽部の雅楽を鑑賞しに行った。昨年に引き続き、これが二回目である。
とは言え相変わらず、特段の感動は覚えない。私にとっては、あれは今を生きる芸術とは言い難い。
しかし、だからと言って、こういうものが世の中にとって全く無価値であるという事にはならない。いつか、こういうものを原材料に、今申楽ならぬ「今雅楽」を提唱する恐るべき才能者集団が出現しないとも限らない。そういう若き創造者たちには、文化財を芸術に昇華せんと欲する良心のあまり、宮内庁を敵に回して「破門」されたりせぬよう、老婆心より御忠告申し上げたい(否、いっそ破門されちまえとそそのかす方が正直というものか)。
ともあれ、前回に引き続き、絶滅を危惧すべき稀少な文化財として鑑賞。
笙篳篥などの音色は好きなのだが、それ以外には特に心に響く要素を見出し難いまま、終演後、雅楽の舞台や楽器をつぶさに見学していたところに、大学時代の先輩N氏と数年ぶりの邂逅を果たす。氏も、つてあってここに見えたらしい。
互いの近況報告などしながら、皇居内を散策する。氏は、芸術に造詣が深く、私としては是非にも朧座の旗揚げ公演を御覧戴きたかったお一人なのだが、残念ながら転居先がわからず御案内を差し上げる事が出来なかった。ために、思い余っていささか熱弁をふるい過ぎたかも知れぬ。先輩申し訳ありませんでした。
途中、三の丸尚蔵館にて「雅楽──伝統とその意匠美」なる展覧会が行われていたので、先輩と共に立ち寄ってみた。と、ここでようやく、思わぬものを見つけて心が動いた。
それは、ガラスケースに収められた「納曽利」という雅楽の面であった。
なぜ、どのように心動いたかという事は、今申楽次回作のいわゆるネタバレになる恐れがあるのでここには書かない。
ともかく、思いがけぬ知己との再会にせよ、創作の為のヒントにせよ、宝は日々の散策の中にこそ埋もれているのであった。

2005年04月26日

たぶん、信玄は喜んだと思う

先日、山梨は甲府・武田神社に薪能を観に行った。
昼過ぎに甲府駅に到着。開演までにはまだ時間があるので、武田神社の後方、要害山の麓にある温泉宿に足を延ばす。武田神社の祭神である武田信玄はこの要害の地に生まれ、この温泉で産湯をつかったという。また川中島の合戦で上杉謙信の越後勢を撃退し、甲斐に凱旋したとき、この温泉で傷病兵を治療させたのは有名な史実だそうで、これが「信玄公の隠し湯」と呼ばれる由縁なのだとか。
武田神社から徒歩40分。立ち寄り湯700円也。
あけびの湯と称する露天風呂からは、甲府盆地が一望出来、誠に気分が良い。

この度の薪能は、信玄公の神前に能を奉納したいという、地元の方々の長年の夢がようやく実を結んでの催しと聞いている。されば、信玄も愛でたという絶景の秘湯に浸かり、殿様気分を追体験しながら悠々と見所(能の客席)に赴くというのも一興であろう。

一風呂浴びた後、要害の宿から神社にかけての道のりというのがまた、花あり緑あり、路傍には名も知れぬ石仏ありと言った風情で、いかにも戦国の往古が偲ばれる。

何が言いたいかというと、能だけではなくて、能を含む全ての環境を、元来私は味わいたいのである。これは、都会の能楽堂などでは決して出来ない事なのだ。能楽堂とは周囲の環境から能を隔絶する為のバリケードであり、周囲の環境とは騒音と排気ガスとに塗れた現代の毒々しい殺風景を言う。
いみじくも、この度の能は「武田の杜 薪能」と銘打たれている。今宵の能は武田の杜に包まれて在る筈だ。

会場に到着して知ったのだが、この薪能には、信玄公の御子孫も実行委員として参画しておられるのであった。そして、この境内はちょうど武田氏の居館跡に当たり、記録によればその館には能舞台も設えてあったそうな。そういう場所に、今、火が赤々と灯されて行く。

さて、この日観た能の感想をここに申し述べる事は差し控えたい。
感動のあまり、うまく言葉にするのはちと骨が折れそうなのである。
小学生に本の感想など安易に書かせるのは間違いだと痛感した。人間、本当に感動したら、それをそう簡単に文章化出来るものではないのだと知った。
能のくせに、芸術であった。これだから名人という奴は性質が悪い。
一つだけ、記しておく。今申楽は、あの上を目指さねばならぬ。ちょっと大変かも(弱音)。

これは、楽屋におられた演者の方々よりも、むしろ見所で観ていた観客の方が、様々な点から賛成して下さるのではないかと思うが、私はあの舞台、ほぼ確実に、神々も観ていたと思う。
とにかく、そんな能であった。

今も昔も、百歳生きる人というのはさほど珍しくない。ある人が百年生きて死ぬ、その日に生まれた人がまた百年生きて死ぬ…そう考えて行くと、信玄などは、ついこの間の人物という事になってくる。
たぶん、信玄も、家臣達も、あれは相当喜んだと思う。

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