先日、朧座衆S氏(制作部)が運営に携わっている日本舞踊の会を拝見して来た。
で、関係者の方々のお誘いに甘えて、打ち上げにも参加させて戴いた。
こういう場が、実に色々と勉強になったりするのである。今回も例外ではなかった。
気付いた点を二点ほど。
一つ目。
S氏は、すすんで朧座の事を関係者の方々に宣伝して下さった(Sさん、有難う御座います)。
で、「イマサルガクって、何?」という問に対し、S氏は何のためらいもなく「現代能です」と答えていた。
なるほどなあ…と、思った。
S氏は舞台芸術に造詣が深い。日本の伝統芸能百般にも精通している。
私が、いわゆる本職の能楽師ではない事なども、もちろん先刻御承知だ。
氏は、「能」を、観世流とか宝生流とか言った家元制度の独占芸能の一種を言うのではなく、もっと緩やかで幅広い語として用いているのである。
私は、このナントカ流とやらの世界のうるささ、みみっちさ、穴のあなの小ささを多少知っているので、彼らに遠慮して「能」という言葉を最近は使わないようにしていた。
しかし元はと言えば、このS氏の使い方の方が、正統的用法なのである。「能」はもともと、広く芸能を意味する語であった。また後に、狭義には観阿弥世阿弥らの演劇を指すようになり、さらに降って観世流宝生流といった流儀が確立された後も、各流のいずれにも属さぬ「辻能」なる各座が存在していた。言わば非公認の演能集団である。
「能」という語は、実は本来、これほど広い裾野を持つ言葉なのだ。してみれば、観阿弥父子(結崎座)の演劇を申楽能と称するように、朧座の演劇を試みに当今の申楽能と呼んでみても、そこには日本語の用法上、何ら誤謬はないという事になる。
むしろ、「能」を各流の独占物と見なして疑わぬ浅見こそ、「能」本来の語義を著しく矮小化し、ひいては「能」という語の歴史を冒涜するものとさえ言い得るであろう。
私は、「現代能」なる形容、そこらのエキセントリックなチンピラ能楽師が好んで使いそうで、好きではない(彼らの場合、まずたいてい、狭義の「現代能」で終わる。ナントカ流ワールドの限界を越えられない)。
しかし、発想を転ずればこの言葉、簡潔にして明快、誠に分かりやすいのだ(我々は広義の「現代能」を志向してこの語を用いる事になる)。
しかも、この場は日舞の会の打ち上げであって、能楽師は不在。遠慮は無用という訳なのだった。
二つ目。
最近とみに思うのだが、結局、「能」だろうが何だろうが、そんな事は私にはどうだって良いのである。
日本人はやたらに自国の芸術をカテゴライズしたがり、さらにそれを流儀化し家元制度化して、そこに職人的専門性を見出す事を美徳としている(もちろん、この時点で芸術性は失われている。芸術とはそういうものではない)。
が、根本は、本来同じものなのではないか。やはり、同じ芸術なのだ。
それを改めて私に痛感させたのが、この打ち上げの席上、とある日舞の大師匠が発したスピーチの内容であった。
「結局、舞台の袖に立った時、いかに無心になれるか。芸能というのは何でもそうです」