先日、NHK教育で新作能『紅天女』が紹介されていた。
この能(?)について、私は以前このサイトで「つまらなさそう」と述べた事がある。観てもいないのに「つまらない」と断言する訳にはいかない、ゆえに「つまらなさそう」と書いたのだ。
残念ながら、番組を見てますますそう思ってしまった。
これについて、jilin氏は「これでは『ガラスの仮面』の名前につられて見に来た観客は失望して能から更に遠ざかるのではないだろうか」と卓見を述べておられる。その危険性は少なくなかろう。私は「世の美内ファンが国立能楽堂に殺到し、その中から新たな能の観客もいくばくかは育つであろう。そう祈れば、この企画あながち無意味とも言い切れぬ」などと述べてしまったが、今にして思えば呑気な物言いであったかも知れぬ。
いつもの事ながら、能楽界の「革新」とは、どうしてかくもうわべの「お遊び」に終始するのであろう。画面を見ながらそう思った。
やはり、どこまで行っても上様御用達の「お能」なのであろうか。観阿弥世阿弥はカミサマなのであろうか。
先日も、さる邦楽一門の実験的な新作を聴く機会に恵まれた。賛否両論あろうけれど、ともかく芯から遊び、大いに壊して世に問うている。腹を括っているのだ。
芸術とは、本来、そういうもの。
今一つ指摘したいのは、テーマの問題である。
「紅天女」は、美内すずえ氏の漫画『ガラスの仮面』に登場する劇中劇である。
劇中劇を劇にする事に、果たして内なる必然はあるのか。私は、そうは思えない。
やるなら、劇そのものをこそ、劇化するべきではないのか。
『ガラスの仮面』そのものをこそ、能に仕立て上げてみせるべきではないのか。
『ガラスの仮面』が能っぽくないというなら、美内氏に断って『硝子の小面』とでもなんとでもやれば良いではないか。
ちまちまやってないで飛躍せよと言いたい。
しかしまあ、NHKという局も、能楽師のやることとなればろくに考えもせず味噌も糞もごたまぜにして垂れ流す観がある。
『羽衣』を、『井筒』を、『野宮』を、流しなさい。
それにしても、jilin氏の御期待に背かぬよう、朧座次回作『修禅寺』、ひとつ頑張らねば。