最初の1時間あまり、冒頭の太夫の語りに付ける寸劇の自主稽古をしてもらう。悪魔がバックダンサーに見えては駄目だ、しっかり弘法大師に退治されないと。
このシーン、今回の物語と直接の関係は無い。それでいて、目下私の創りたいと思っている今申楽の在り方が最も如実に発露するシーンでもある。
つまり、無駄のない演劇という事だ。全ての所作が、結果的にある種の舞と化しているような、そんな演劇の事だ。
美に濾された演劇、といっても良い。
次に、洞窟の前半シーンをやった。
なかなか難しい。声の二人が苦戦している。試みに私が声をやってみたところ、頼家(川野氏)はやりやすかったという。決して私のが上出来という訳ではないのだが。
そこで川野氏は「シェイクスピア劇の朗誦術など参考になるのでは」と発言された。私は、つまりそれは詩を読む能力の事ではないかと思った。
声の台詞を詩として読んでもらったところ、阿部氏は最初「詩」の真に意味するところがわからず苦戦したが、最終的には何かを掴みかけたようだ。JERSEY氏が読んだところ、印象的な長編詩の様相を呈してきた。こんなJERSEY氏を見るのは初めてだ。本人も初めての経験だったようで、驚いていた。「すぐにまた前の状態に戻ってしまうのでは…」と案じていた。まあ、稽古あるのみだろう。
考えてもみれば全ての戯曲は詩である筈で、そういう意味では詩的でない台詞は「無駄」なのだ。そして無駄が多いと、観客は寝てしまうのだ。
阿部・JERSEY両氏には詩を読めるようになってもらいたい。それはもちろん、単に叙情的にやるのとは訳が違う。そこのところを、終わりの方の稽古では間違えてしまったようだ。
しかし、ともあれ、一縷の光明は仄見えた気がする。
山本氏に、歩くときは一足以内の歩幅で、立つときは爪先を揃えて、とお願いした。それだけでもだいぶ違って見えるはずだ。
今日は稽古場に唄演奏の今藤氏が見えたので、終わりの殺陣からカーテンコールまでざっと流した。この辺は特に演奏陣との絡みが重要である。最後、挨拶の口調が今一つ合わない。ここはまた、稽古する事にしよう。頼家政子に捧げる舞も作らねば…。
しかし、今日辺りから少しずつにではあるが、私は政子を演るのが楽しみになってきた。そんな気がする。