来宮にて
熱海の来宮神社は、私の大好きな神社の一つ。境内の大楠はいつ見ても飽きない。なるほど、これを見て神坐す座と感得する古代人のセンスの方が正しいと、いつもながらに思うのである。
先日もここを訪れた。
参道の石段を登る途中、とある家族連れと横並びになった。
おばあちゃんが孫に「ここにはね、木の神様がいるんだよ」と言った、その途端である。孫は「え?ほんと?」などと目を輝かせながら、元気に駆け出していた。その後大楠と対面して、祖母の解説に納得したことと思われる。
神社に詣でるというのは、つまるところ、こういう体験であろう。
観念だけでは、子供が走り出したりはしない。大人に神様がいると言われて、子供が思わず走り出さずにはいられぬような信憑性。ここには確かに神がいるかも知れぬと子供に思わせるだけの、その土地の持つ説得力。そのような、いわば論理を超越した何物かが、神社という場所にはある。
観念、それは往々にして政治や宗教に利用されつつ、民草の素朴な信仰とは別物の様相を呈して行く。
来宮の大楠を見るが良い。日本人は、おそらく、そこに無条件に「何か」を見出すはずである。
「何か」がそこにあるか否かをめぐって議論百出するようでは、つまり、まだまだそこは「お社」として熟していないということであろう。