ふと、力士のあの贅肉は、格闘家の体格の生々しさを消す為の知恵なのだろうか、と思った。相撲は、あまり生々しくないから、私のような格闘技嫌いでもなんとか観られるのである。
そういえば、昨日、舞踊家Kさんと久しぶりに話をしていたら、今は母から教わった地唄舞をやっているが、昔は父から空手も習っていたという話をうかがった。Kさんは物腰すこぶる穏やかで、空手というイメージは全くなかったので、大いに驚き、色々と空手談義に花が咲いた。そこで、なぜ私が格闘技が嫌なのかという話をしたら、Kさんも非常に賛同して下さったのである。
私は、ただ単に相手を痛めつけて事足れりとする種の格闘技というのは、要するに野蛮すぎて観ていられないのである。大晦日などに民放が非常に残虐な番組をやって、しかも結構な視聴率を稼いでいるそうだが、あんなのはコロシアムで奴隷に殺し合いをさせて楽しむ趣味といくらも変わらない。はっきり言ってそう思う。(だから私は少年漫画雑誌の類も大嫌いで、まともに読んだことは一度もない)
相撲は生々しくないというのは、要するにそういうことなのである。
日馬富士の立会い時の力み方は、あれくらいまでなら許せる、あれ以上やられると私は不愉快でテレビを消したくなるというその臨界点をうまい具合に(?)示していて、変な意味で興味深かった。
そんなことは昔はどうでもよかったのに、年々、潔癖になってきているというか。
私のいとこが、やっぱり役者をやっていて、しかもアクションも出来る有能な人だったのだが、数年前に突然、役者を辞めたという。なんで辞めたのかと聞いたら、自分がヤクザ役などで暴力シーンを演じているのを観て(彼はそういう役が多かったのだろう)、若い人が本当に真似をしてしまうのが耐えられなくなって辞めたと言っていた。筋骨逞しい人だったのに、今は肉も断って菜食主義に凝っているということだったから、相当の深い考えがあったのであろう。
そのいとこの気持ちが、最近ようやく、ほんの少しわかる気がする。
生々しい暴力、殺し合い、そういうのは見せ物にすべきでないと私は思う。
新作に戦争を取り上げようと思い立ってから、なぜかますますその考えが強まっている。生々しい暴力、殺し合い、そういうものを描かずに、しかも戦士の実際というものを描きたい。そんなことは無理な話かも知れないが、しかし、朧座は常に常に、無理との格闘なのである。
そして、それは新作にとっての懸案であるのみならず、『修禅寺』にとっての懸案でもあるのである。
そう、『修禅寺』には2箇所、こんなものを見せ物にしていいのかどうか、書いている私自身が悩み躊躇いながら書いたシーンがある。そして、そのどちらも、おそらくカットするわけにはいかない。カットしたら、『修禅寺』ではなくなってしまう。そういうシーンなのである。
相撲を観ながら、ふと、そんなことを考える今日この頃である。