現状報告
◎9月の『修禅寺』の稽古が始まった。
このブログにもしたためたいことは山のようにあるのだが、毎度の事ながら言い訳させて戴く、いかんせん時間がない。げにげに、草鞋の履き過ぎは禁物である。
ほんと、ごめんなさい。
◎そんななか、先日、伊豆修善寺温泉の頼家祭りを見物。私もお寺様や地元の皆様のあとから、頼家公・十三士墓前にて御焼香に加わらせて戴いた。
妻若狭局・子一幡を従えての頼家行列。
地元の方々の心尽くしのお祭りに、頼家公も十三士も喜んでいるのではないかと私は思う。
さるホテルで自転車をお借りし、ようやく奥の院にも公演のご報告に参じることが出来た。
◎稽古は目下のところ、探り探り、しかし少しづつ、前に進んでいる。
やはり語りの問題があるのだと、このところ気付かされた。基本的には、本作『修禅寺』においては語りの文体を敢えて排し、極力、会話劇の手法で書いたつもりであったのだが。
しかし、本質的にはやはり語り物であるらしいのだ。これは私にとって嬉しい発見である。
だって、私は結局のところ、語り物がやりたいのだから。
前近代の日本の演劇が総じて持っていた語り物の伝統を、黒船にもめげず、原爆にもめげず、私は現代日本演劇の庭に接ぎ木したいと思っているのだから。
これは、私一人の儚い希望などでは決してない。
◎先日の稽古で、「しおり」「もろしおり」という能の型の話が出た。
片手で泣いて見せる「しおり」だけで十分にかなしみの表現なのであって、これが両手を挙げて泣く「もろしおり」となると最高のかなしみ、あまりにも強烈なかなしみになってしまうということを役者に話すと、混乱させないでくれ、だったらあそこは現状の「しおり」的演技より「もろしおり」的演技の方がいいんじゃないか、というような話になった。そういう込み入った話になって、ようやく演出として気がついたことがある。
いささか話が専門的になり恐縮だが──、それは「日本の演劇」というものを私なりに考える上で、実に示唆に富む発見だったのである。