新作能が今、静かなブームの兆しを見せている。あちこちで、色々な取り組みがなされ始めた。こうした取り組みがきっかけとなって、「真なる意味で能を新しく作る」という機運が芽生えたら大変素晴らしいことである。
新作能。実を言えば、私も昔は「新作能の作者」と呼ばれてみたかった時期がある。まだ「今申楽」という発想が湧いてくる前の頃の話だ。能を観に行く時には、駄目でもともと、何か大事な出会いがあるかも知れないと思って、必ず『香炉峯』など新作能のつもりで書いた自作の台本を何部か印刷して持参したものだ。機会に恵まれて、何人かの能楽師の目にとまった時など、もう何と感想を言われるものやら、期待と不安でカチンコチンにしゃちほこばっていた。結局、感想らしき感想が帰ってくるのは稀であった。今にして思えば、感想と言われても、何を言えば良いのかよくわからないという方も多かったことであろう。
しかし、今では今申楽朧座の主宰者兼座付き作家になってしまったので、「新作能の作者」と呼ばれたいという気持ちはもう存在しない。だが、空也坊が「私はいつか『香炉峯』を新作能という形でも上演したい。ただし準備が整うまで、あと何年かかるかわからないが…」と言ってくれたので、いつかは「新作能の作者」と呼んでもらえる日が来るかも知れない。その暁には、能舞台で能楽師たちが本式の能『香炉峯』を演じて下さるわけである。主人公・清少納言を演ずるはやはり空也坊であろうか。空也坊、否、その時こそは彼の能楽師としての名がパンフレットに燦然と記載されているに相違ない。そしてその頃、見所(=客席)の奥にて呆々と舞台を眺める白髪の老人が私だ。
閑話休題。方法として、昔は今申楽の方が難しいと思っていた。今では新作能の方がはるかに難しいと思う。第一回公演の幕が上がるまでは、私をはじめ朧座一同みなヒヤヒヤであった。何しろ初めての試みなのでお客様がどう受け止めて下さるか…全くの未知数であったから。だが、千秋楽を終えた今、第二回が楽しみだと多くの方が言って下さっている。必ず第二回はやる。もちろん、第一回の反省点を生かし、万全の準備を行ってからの話だが。
しかし、生みの苦しみもいろいろ味わった分、生まれた喜びも大きい。そして、今申楽という方法を生んでみて、初めて実感したのだ。ああ、これは新作能の方がよっぽど難しいな、と。
一般に言うところの新作能、それは能に造詣の深い文学者などが台本を新作し(場合によっては、面や装束も台本のイメージに合うものが新調される)、それに能楽師が既存の謡や舞を当てはめて演じるという方法をとる。
しかし、その方法は、実は非常に大きな矛盾を孕んでいるのである。
「既存の謡や舞を当てはめて」というところに、誠に大きな陥穽がある。
結論から言えば、既存の謡や舞は、既存の台本でやれば良いのである。
台本を新調する以上、謡も舞も新調するべきだと私は考える。面や装束のような物質面だけ新調して「新作」を名乗るのは、ちょっとせこいのではないか。
作家に新作を書かせて、デザイナーに面や装束を新作させて、謡や舞はどっかの切り張り、いつものまんま。なんだかねえ、という気持ちになってしまうのは果たして私だけであろうか。
要は、何をもって能と名付けるか、定義の仕方である。
能とは何か、という問題である。
伝統芸能?無形文化財?それとも、あるいは…?という話。
「真に能を新しく作る」ためには、相当多くの人間が相当多くの事柄を考え直さなければならないだろう。本質的に。
昔、私がプロの能楽師に能を習いたいと言い出した時、私の計画(その後「今申楽」と呼ばれることになる。当時は単に「新しい能楽を創る」と称していた)をよく知る何人かの友人が真剣に私に忠告してくれたものだ。
「やめておけ。お前のやりたいこと、出来なくなるぞ」
友人たちの忠告はありがたかったし、その意図もよくわかったが、私は入門を決断したのだった。
そして、その決断は正しかったのである。師匠に恵まれたため。
ともかく、もう一度繰り返す。
「真に能を新しく作る」ためには、おそらく、多くの人間の意識改革が必要である。「能」とは何か、関係者全員、徹底的に考え直さなければならないと思う。そしてその結果、既存の型をただ当てはめて事足れり、などという微温的結論を突き抜けたところにまで行かないと、ことは新作能ごっこに終わり、関係者もそれを持ち上げたマスコミも足を運んだ観客も、全員頭が悪くなるか空しい思いを味わうかという結末を迎えるに相違ない。
…と、この辺りの事をきちんと皆で考え合えるようになったら、新作能という方法にも初めて未来は開けてくることと私は思う。
空也坊が「私が『香炉峯』を新作能で上演できる日が来るまで、あと何年かかるかわからない」というのは、「新作能がやれるような身分になるまで」の意ではあるまい。「真なる意味での『新作能』がやれるような機運が熟するまで」の意に相違ない。
想像をたくましくするに、もうその頃には、「今申楽」と「新作能」の距離は相当縮んでいるのではあるまいか。
まあ、夢のような話ではあるが、いつかかなう日も来よう。