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修禅寺 アーカイブ

2005年04月12日

頼家と政子の旅が始まる

今申楽第二回公演『修禅寺』、その脚本第一稿をつい先程書き上げたところである。

先日、ちと山梨に散歩に出かけた折、久方ぶりに甲斐善光寺に参詣した。で、すっかり忘れていたのだが、この寺の宝物館には源頼朝及び実朝の木造坐像が安置されていたのである。
ここで彼らの像に思いがけず再び出会ったのも、何かの縁かも知れぬ。そう思って、彼らに、今申楽第二回公演の成功を祈念する事にした。
先ず、頼朝像に向かって。「御長男並びに令夫人を取り上げさせて戴きます」
次に、実朝像に向かって。「兄君並びに母君を取り上げさせて戴きます」
そうして、最後にこの二体の将軍像に向かって。「何卒宜しくお願い申し上げます」

「あの二人を頼む」
二体の将軍像からも、そう、頼まれたような気がした。

話は変わって、今年のNHK大河ドラマ『義経』には、頼朝夫婦も登場しているのだが、時間がなくてあんまり真面目に観ていない。たまにはチェックしとくかと思ってテレビをつけたら、いきなり平幹二朗(後白河院)・夏木マリ(丹後局)両氏の顔がアップで画面に映し出された。
うわっ妖怪、私が見たいのは今回はあなた方じゃないんですが…と思ったらすぐに伊豆のシーンに移った。そうそう、こっちをチェックしときたいのである。
つまり、他の作家や脚本家が、京都じゃなくて東国ってものをどう描いているかに、今はいささかの関心があるわけだ。
頼朝・政子・時政(それぞれ中井貴一氏・財前直見氏・小林稔侍氏)が、平家に叛旗を翻そうとかなんとか、謀議している場面である。うーん、政子って、頼朝の生前からあんなに政治家然としてたんだろうか…個人的にはやや疑問。しかしともかく、主役の義経チームより、こっちの連中の方がなんだか存在感があるなあ…
そのうち、万寿(後の頼家)も出て来るのであろうか。

というわけで──今申楽第二作『修禅寺』は、源頼家と北条政子、この親子の物語である。
ともかく、第一稿は上がった。これから、頼家と政子の旅が本格的に始まるわけである。
執筆に今までのところ、約九ヶ月を要した。
この間、朧座衆の面々からは、様々の有難い助言と激励とを戴いた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

また、友人のM氏には、別して謝意を表したい。私は、彼女との交流の中で、自分という者が今回の台本を書くに当たっての指針を見出だす事しばしばであった。

2005年06月13日

シナリオ完成が先でしょ

今申楽次回公演『修禅寺』のフライヤー、源頼家役と北条政子役、二人の主演者が対峙している写真を用いるのはどうか。
前回公演『香炉峯』では、俳優の写真を一切使わなかった。が、効果的に使う手もあるだろう。
ふと、そんな事を思いついて、意見を問うべく香港のデザイナー(朧座美術部)にスカイプをかけたところ、「うん、悪くはないかもね。でも、シナリオ完成が先でしょ」とあっさり言われた。

まあね…。

残念ながら、台本完成が遅い劇団は誠に多い。演劇の質の向上に、決して益するものではないと考える。
反面教師と心得ねば。

2005年07月05日

作曲家奥田氏との初対談

来年当座で上演予定の『修禅寺』の音楽面について、先日、作曲家の奥田祐氏と話し合った。
氏には、『修禅寺』の音楽創りをお願いしている。今回は初の創り手対談という事で、作者である私と差しで3時間半ほどじっくりと。

参考になりそうなビデオやCDを視聴しつつ、『修禅寺』第一稿を前に、これをいかに第二稿に繋げて行くべきか、互いの意見を忌憚なく出し合った。
我が国の芸能史。台詞劇と音楽劇の関係。古今東西の楽器論。議題は盛り沢山である。
その内容をここに詳らかにする訳には行かない訳で、これが誠にもどかしい。
月並みなセリフで恐縮だが、観てのお楽しみと申し上げるより他はないのである。
ともあれ、無から何かを生み出す喜び、それを分かち合える方と出会えた事に、心から感謝したいと思う。

2005年07月11日

頼家と政子の祥月命日

週刊誌『AERA』今週号に興味深い記事が載っている。曰くオタクビジネス爆発、わびさびに続く日本の新文化「萌え」市場に熱い視線が注がれているとの事。で、この記事の冒頭に修善寺が取り上げられているのである。
記事によれば、修善寺のさる温泉宿が今、鉄道ファンに人気なのだとか。この宿、6年前に宴会場を潰し、大型鉄道模型を並べて遊べるスペースに改造。最盛期には約30軒あった修善寺の旅館が約20軒に減った今、ここの客数は改造前から1.5倍に伸び、その9割以上が鉄道模型ファンで占められていると言う。年に数回来ると言う客のコメントが紹介されていた。
「修善寺にこの旅館以外何があるか知りませんね」

修善寺には、温泉宿の他に、修禅寺という名の寺があるのである。
と言うか、この地名はもともと寺の名前に由来しているのだ。地名と寺名が一緒では紛らわしいので、のち地名の場合は「善」の字を用いるようになったのである。

この客、鉄道ファンと言うが、各駅付近の見所なんかにはてんで興味がないのであろう。鉄道ファンには、駅名や路線図、またその一帯の観光事情等に通暁する地理系と、もっぱらその造形美に耽溺する車両系の二派があると聞く。
「食事も、ある程度うまけりゃなんでもいい」そう言って持参のふりかけを食卓に並べると言うのだから、これは旅先の地味に舌鼓打つなんてタイプではない。明らかに後者、それも相当重度なお人であろう。

それにしても、思う。
宴会場を潰して小劇場を興そうという粋な旅館が彼の地にあれば、さっそく企画書を持参するものを…。
とまあ、これは半ば冗談であるが、今週末、私はほぼ一年ぶりに、その修善寺に赴く。

昨夏は、ある日突然思いついて独りで出かけたのであった。その約8ヶ月後、私は今申楽次回作『修禅寺』、その第一稿をどうにか書き上げる事となる。
先ずはその脱稿を、二人いる主人公のうちの一人・源頼家の墓前に報告する事。それが今回の旅の大きな目的となるであろう。

今回は、朧座制作部の笛麿・鼓之丞が同伴してくれる。実は彼らは「勤め人」という裏の顔を持ち合わせているので(もっとも勤め先から見れば、「朧座制作部」とやらこそ裏の顔に他ならぬ訳であるが)日頃多忙な彼らにとっては夏休みの旅でもある。

頼家は、修禅寺門前の指月丘に眠っている。
我々の行く17日には、頼家忌という地元の祭りが執り行われるらしい。
翌7月18日は、旧暦で頼家の祥月命日に当たる。

そして本日7月11日は、これも旧暦で、今一人の主人公・北条政子の祥月命日に当たるのであった。

2005年08月25日

始動の時

23日、演出家決定。私朧太夫と陳俊宏(朧座演出部)の共同演出とする。
24日、「面」「装束」並びに朧太夫との共同制作で「作り物」(簡素な舞台装置)以上三点の制作を、さる造形作家にお願いするべく、台本を手渡しする。正式な御返事を戴くのはもう少し後の事となろうが、どうも修禅寺という寺にはここ最近縁を感じておられたらしく、前向きに考えて下さるようだ。

脚本第二稿に向けての蓄積も相当進んできている。第一稿はともかく、いわゆる演劇台本の文法に従って書いた。第二稿では、これをいかに「今申楽」のための台本に展開して行くかが私の課題である。ま、あまり書くと「ネタバレ」になるので奥歯にモノの挟まったような書き方しか出来ぬ事がもどかしい。観阿弥世阿弥も言っている、秘すれば花なり、秘せずは花なるべからずと…

そしてまもなく、上演日程並びに会場が正式決定の見通しである。
今申楽第二作『修禅寺』、いよいよ本格的に始動の時を迎えつつある。

2005年09月07日

鎌倉武士の世界の物語

私は、今申楽次回作『修禅寺』脚本第一稿に「作者覚書」なるものを付して、そこでおおよそ以下のような事を書き付けている。

「もしかしたら、客席のどこかで、この作品の主人公である源頼家や北条政子がこの作品を観届けてくれているかも知れない。おそらくは、別々の席で…しかし帰って行く時は、親子、手を繋ぐまでは行かなくても、せめて、一緒に帰路について戴きたい──と、作者としては切に願うのである。」

そして、場合によっては、この文章をチラシの片隅にでも載せても良いかな、などと思っていた。

だが、どうやら私は間違っていたのかも知れない。
その事に、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を読んでいて、ようやく気が付いた。
もしも、私のこの度の読みがそこそこ的を射ているとするならば──あの書物には、思わぬ真相が暗に示されている事になる。

一緒に帰路になどつくだろうか。否、そんな筈はないのだ、きっと。

脚本を一部、書き改める必要がありそうだ。

その為には──ともかく、『吾妻鏡』に出てくる「あの場所」に行かなければならないだろう。
前々から一度は訪れる必要があると感じてはいたが。

『修禅寺』。それはあくまでも鎌倉武士の世界の物語である。質実剛健とは言い条、太刀と太刀とが火花を散らし、肉が裂け血が流れ、あまたの命が日常茶飯事の如くに失われる、そんな世界の物語なのである。
太平の御世のお気楽剣劇、チャンチャンバラバラチャンバラバラ、の世界ではなかったのだ。

2005年10月13日

第二稿に向けて

私の芝居をよく御覧戴いているSさん(当座の旗揚げ公演『香炉峯』も観て下さっている)から、昨日こんなメールを頂戴した。
「次回作に向けてのご様子をHPで拝見しました。丁度、マンガ日本の古典『吾妻鏡 上・中・下』竹宮惠子作を読んだ後なので、大変興味深いです。」
こういうメールを戴くと、次回作『修禅寺』第二稿に向けて、ああでもないこうでもないと悩ましい今日この頃、泉のように勇気が沸いてくる。Sさん、ありがとうございました。
竹宮氏の漫画は、私も楽しく読ませて戴いた。氏が描くとどうしても美男美女の世界となる。好悪の分かれるところであろうが、果たして北条政子はあんなに美人だったのだろうか…と、いささか思わぬでもない。いや、案外、美人だったのかな。

北条政子は一体どんな顔だったのだろうか。近頃とみに気になり始めた。
これというのも、次回公演の日程・会場が決定したからであろう。
折を見て、当サイトに発表したい。

そして先日、鼓之丞(朧座制作部)とともに「あの場所」へ見学に行ってきた。
そこに行かぬ限りは、台本完成はない。と、以前から直感的に察していた場所である。

さて、行ったからとてめざましく筆が進むかと言えば、そういう訳でもない辺り、もどかしい。
しかし、行って良かった。やはり、一度は訪れておかねばならぬ土地であった。これだけは確かに言える。

本を書かねばならぬ時というのは、私の場合正直に言って半ば狂人半ば廃人の体である。ためにどうしてもブログ更新どころではなくなるというのが偽らざるところ、新記事をお待ち下さっている皆様には申し訳なくただただお詫びを申し上げる。ごめんなさい。
「日々朧々」も、そろそろ「時々朧々」辺りが相応しいかも知れぬ。

2005年10月21日

モデル発見

最近は今申楽次回作『修禅寺』の公演日程・会場が本決まりした事もあり、はや逃げも隠れも能わぬ仕儀と相成って、第二稿に悶々とする日々である。
こうなると、朝な夕な念じ続ける事はただ一つ、
「今、私が事故なり病気なりにあって死んでみよ。『修禅寺』は第一稿があるばかり。朧座衆はそれを元に何とか上演にこぎつけてくれるであろうが、さて、それで私は本当に成仏出来るであろうか」
また縁起でもない事を書いてしまった。しかしこうでも思わぬ限り、筆の進みがのろくてのろくて、何より書いている本人がたまったものではない。

かかる折は気分転換が何よりの大事。
先日、ついに煩悶やる方なく、ええままよと、足の向くまま神奈川県のさる土地に気晴らしに出かけた。
と、そこで思いもかけず出会ってしまった訳なのである。

この作品の、二人いる主役のうちの一名と、今ひとり大事な脇役。
この二人が、なんとそこにはいたのである。

「ユー!」と叫んで街中の美少年を発掘するという、かの芸能事務所社長の心持がいささか分かる気がした。
ああ、人生はなんと未知と不思議とに満ちてある事か。
呆然と立ち尽くし、いつまでもいつまでも、ガラスケースの中に仲良く居並ぶその二面をためつすがめつ眺め続ける事であった。
帰りの車中の心中朗らかなる事、申すまでもない。あな、よき日なりけり。

「修禅寺」の読み方

先日、某テレビ局の地域紹介番組で伊豆修善寺が取り上げられていた。
で、この番組、地名としての修善寺をシュゼンジ、寺名としての修禅寺をシュウゼンジと、明確に読み分けていた。
実は以前、よく行く店のママさんに「次回の今申楽はシュゼンジっていう作品をやろうと思ってるんです」と言ったら「あら、あれはシュウゼンジでしょ。勉強が足りないわね。協力欄に私の名前を載せて御招待なさい」と言われていた。以来、気にはなっていたのだが、こうして大々的に放送されてはもはや居ても立ってもおれぬ。
テレビ局に電話したら制作会社に問い合わせてくれとの事。で、制作会社に電話したら、「街の方もお寺の方もシュウゼンジと読んでましたので」と誠にうるさげな対応であった。ちゃんと取材してるんだと言いたいのだろうが、こちらは単に聞いているだけ。も少し穏やかに対応して戴きたいものである。
この対応ぶりではこの会社、けだし信用ならぬと判断し、寺に直接確認をとったところ、御丁寧に御教示を戴いた。真相はかくの如くであるらしい。
すなわち修禅寺は、弘法大師創建の昔からシュゼンジと読むが正しい。しかしこれでは地名の修善寺と読み方が同じで紛らわしいという事から、二世代ほど前から、寺名の場合はシュウゼンジと仇名的に読み慣わす方々が地元に現れてきた。俗称の事とて寺でも特にそれを戒めだてるという事はせずに、ただ出版物や放送機関が公にこの寺を呼ぶ時には固くシュゼンジで通してもらってきた。この度の取材でもそれは言ってあった筈だが、制作会社の手違いから誤って放送されてしまったものである。なお修の字は修学旅行などシュウと読むイメージが強いが、修業という言葉もあるように寺院ではシュと読む場合も少なからずである。
との事であった。

という訳でママさん、せっかくながらお名前もお載せ出来ませんし、御招待も致しかねる結果と相成りました。
恐れ入りますが、お金を払って観に来て下さいませ。ツケは御容赦。太夫敬白。

2006年01月01日

イイクニ作ろう?

朧座の次回公演『修禅寺』。
先日の打ち合わせで、共同演出の斉藤さんや音楽の奥田さんや製作の安藤さんに「1月中には第三稿を上げます」などと言ってしまった。という訳で、今、台本を書いている。
この『修禅寺』、鎌倉時代の話なので、書いているうちに鎌倉時代に詳しくなってくる。
知れば知るほど、まあ、とにかくほんとに凄まじい時代なのだった。
イイクニ繕う鎌倉幕府、なのだった。実は。
「ネタバレ」になるといけないので、あんまり詳しい事は書かないでおくが。
ちなみに前回の旗揚げ公演は平安時代の話であった。
平安時代はのどかで良かったなあ。などと思う元旦の朝。冬はつとめて。

『修禅寺』、詳細が決まりつつある。
近々お知らせ致します。

2006年01月14日

中間地点

最初は「北条政子」だった。そこから「源頼家」に行き着き、そして今また「北条政子」に帰ってきている。
構想から約1年半。書き始めて、そして最近になってようやくわかりかけてきている。
道のりは果てしなく長い。まさか、これほどまでに長いとは。

が、自分で選んだテーマである。書き続けよう。時に歩み、時に立ち止まりつつも。

朧座次回作『修禅寺』、本当の主人公は頼家でも政子でもなく、もっと別の何ものかであるのかも知れない。

2006年03月12日

発酵期間

前作『香炉峯』は、正味2〜3週間で書き上げた。
今作『修禅寺』は1年以上かかった。しかも、まだ書き終わっていない。いろいろですね。
 
今は、筆を擱いているのである。発酵期間。
頭の中で、プチプチと音を立てて何物かが発酵しているのがよくわかる。変な感覚である。
まあ、発酵食品というのはおしなべて美味ですからね。要するに乞う御期待という訳で…シュウウウ。

発酵という化学反応を、何か勘違いしていますかね。ワタクシ。

さて、発酵期間はやみくもに台詞なんかをひねり出したりせず、週刊誌でも立ち読みしながら悠長に今作のコピーを考えてみたりする。

「渡る幕府も鬼ばかり」

発酵期間、も少し続く。ネチャネチャ。

2006年06月03日

稽古初日

台本最終稿も上がり、演者・スタッフほか公演概要も決まり、チラシも無事印刷所に入稿された。
そしていよいよ、今日から稽古が始まった。

と言っても、まだ地慣らしのようなもの。本格的な稽古は7月に入ってからと思っている。今は、他の役者と今回の作品について、また演劇について、大いに語り合いながら互いの信頼を深めて行きたい。
いずれ、芸術的な大ゲンカがし合えるくらいの仲までに…

さて、本日の雑感。
私、今回初めて共演する役者もいて、ワクワクドキドキの数時間であった。
他の劇団本番に出演中で稽古に参加出来なかった役者もいる…早く皆で稽古がしたい。もう、楽しみで仕方がない。
全員の課題は、もっと台詞をスラスラ読めるようになる事。その為に、自分の知らない単語(「金吾」だの「魔事品」だの「六書八体」だの、わんさか出て来る…皆、頑張れ!)の意味を調べてきてもらうよう頼んだ。それも、自分の台詞のみならず、他人の台詞まで…だって演劇は皆で創るのだから。
作家である私が単語の意味や読み方を最初から説明してしまう事も可能は可能だ。だがそれでは学校だ。そして学校で教わる事というのは、だいたいが身にならずに終ってしまう。

今後、しばらくの間は読み稽古を丹念に続けて行きたい。

2006年06月10日

稽古2日目

チラシが完成したので稽古場で役者に手渡す。皆喜んでくれて良かった。その作品に関わることを演者に誇りに思ってもらえるような、そんなチラシが一番だ。チラシに負けないよう、しっかり稽古して行かねば。
(ところで私は、チラシよりオクバリとかオワタシというような名称の方が良いのではないかと最近思っている。ぞんざいにチラシてなんかいるから演劇は動員が伸び悩むのではないか、サラ金でさえ駅前でティッシュをオワタシしているではないか…と。だから今回のフライヤーも、なるべくならチラスのではなく、お客様一方一方に丁寧にオワタシしたいものである)

今日も読み稽古。阿部氏が絶好調だった。「この役はこんなイメージがあるのでちょっとやってみても良いですか」と言うので試してもらった事がある。こういう申し出は作演出としてとても嬉しい。
途中、ある長台詞を、一例として私が読んでみた。自分で書いた台詞なのに、何度かつまづいてしまった。恥ずかしい限りである。反省。

帰り際、役者達が、役者同士の日常会話も鎌倉時代語でやってみたらどうかと話し合っていた。鎌倉時代語は厳密には再現できない(できるものなら試してみたいが、テープがないので土台無理である)、あの台本にあるのは正確には鎌倉時代語ではないと補足しておいた。言うなれば擬鎌倉時代語である。しかしともかく、台本の話し言葉で日常会話も行うというアイディア自体は素晴らしい。演出も候文でやってみようかな。「今のとこ、ダメ出し申したく存じ候」とか。
公演後、出演者全員ハットリ君みたいになっているかも知れない。

2006年06月17日

稽古3日目

先週まで他劇団に出演されていた山本氏が、本日から稽古に合流。これで5人揃った!全員揃うと当たり前だが何かが違う、闘志がもりもりと湧いてくる。
今日は台本の前半部分をざっと読み通した。やはり古語と歴史的仮名遣いに関しては一通り説明しておく必要があると感じた。
川野氏が、今回の役を演じる事について、いろいろと思い悩んでおられる様子だ。今後、1日に1回は頼家・政子のシーンを稽古したいと言われた。同感である。

明日は演奏家3名も含め、全演者の顔合わせである。楽しみだ。

2006年06月18日

稽古4日目(顔合わせ)

今日は役者+音楽チーム+美術チーム+舞台監督+製作で顔合わせを行った。今まで個々に顔を合わせてきた今回のメンバーが、ここについに一堂に会したのである。こうして見渡してみると、改めて、心強い方々がお集まり下さったなと思う。殊に演奏家彩氏・内田氏のお二人とは、私も初対面で感無量であった。お会いしたかった!
昨日は、作・演出・出演・製作として、また朧座主宰として私が思うところを皆さんにお伝えした。今申楽はかくありたいと願うポイントを三つ、忌憚なく皆さんに聞いて戴いた。一、演劇と音楽の関係について。一、「まつり」について。一、仮面について。

相変わらずの口下手で初歩的なミスもあったが、今後に生かすより他はない。
ともあれ、今申楽 朧座『修禅寺』はようやく港に着いた。いよいよ出航である。

2006年06月24日

稽古5日目

これまで3回読み稽古を行い、その要を痛感したので、歴史的仮名遣い及び台本の古語部分の現代語訳を行った。参ラスなどのいわゆる「謙譲語」については、狂言を習っている役者でさえ理解不十分であった。たまたま学生時代に国語科の恩師に恵まれ、国文法の基礎くらいは叩き込まれている私のような者は、言葉を商売道具とする役者の世界においてさえ決して多いとは言えない。それもそのはず、国語学者の発明(?)したこの「謙譲語」なる用語からして、実は多分に事の本質を見誤った命名であるのだ。本当はへりくだってなどいないのだ、古典の「謙譲語」は…。学者からして文法を誤解している向きが多いのだ、これでどうして真っ当な知識が世に広まろう。
誰の誰に対する敬意か。考えてみれば、そこを解さずに敬語文を読む事など不可能なはずだ。恐ろしい事である。

時代劇をやる時は、古文の知識が必要である。

その後、台本の後半部分を読み通した。
頼家政子のシーン、これはもう、何度でもやってみるに如くはなさそうだ。今のところ。

2006年07月01日

稽古6日目

古語部分、皆だいぶ読めるようになってきた。あと一息というところ。

今日は稽古始まって以来、初めて全編読み通した。やはり通してみないとわからないもの、通してみて初めてわかる何ものかが確かにある!
ト書も全部私が読んだ所為か、終った後はクタクタであった…ト書も含めて1時間45分。悪くない時間である。

また今日はいくつかのゲームを行った。「その台詞、本当に言いたくなければ言わないゲーム」「台詞を全部狂言調で交してみるゲーム」「自傷行為を行う者とそれを止めに入る者、リアルにやったらどうなるか、それを型化してみるとどうなるか試すゲーム」など。発見の連続。

「その台詞、本当に言いたくなければ言わない」という条件は、本当は役者の全ての台詞に課したいところなのだ。(それが、私の究極の夢である。)

そしてやはり、最終的には何らかの型に濾して行きたいところである。

政子役としては、今日は侍女役との絡みで見えたものあり、収穫であった。そろそろ台詞を入れねば。

2006年07月02日

稽古7日目

今日辺りから皆、本当の意味でこの台本に向き合い始めてくれた。そんな気がする。

やはり頼家は万寿なのだ。今日の稽古で、改めてそう感じた。万寿を演ずるのは川野氏だが、万寿を創るのは氏と母・政子役の私である。心してかからねばならない。

「声」という役がある。この「声」に今日初めて流れが見えた。この「声」、役者に何度か無声音でやってもらった。独特の印象であった。

政子と侍女の課題は「女」だ。今申楽の女形を創る事だ。裏声を弄ぶでもなく、まして美しい小面の下から太った男の肉がはみ出ている奇観を呈するでもなく。「女」がポイントだ。

そして本日の忘れ難い達成、それは「蹴鞠シーン」に光が見え始めた事だ。
皆で、筆や太刀といった小道具はどうするのか、リアルに実物を使うのか、あるいは…といった話をしているうちに、「じゃあ、鞠はどうする」という事になった。あまり書くとネタバレとやらになるが、今回の話では鞠という小道具がかなり重要な位置を占めている。しかも、それを役者同士が蹴り合う場面があるのだ。私は、実をいえばさしたるプランもなしにこのシーンを書いた。今申楽に大劇場は似合わない。本当に舞台上で蹴鞠なんか出来るのか、仮に役者が蹴鞠の天才だったとしても、それでも鞠が客席に飛んでいってしまうリスクを拭い去る事は出来ないだろう…というような現実論は一切合切抜きにして、このシーンを書いた。台本第一稿にはこのシーンはなかった、だがやはりこのシーンは欲しいのだ。800年にも及ばんとする頼家像、蹴鞠に現を抜かした馬鹿殿様という『吾妻鑑』のイメージに疑義を呈する為には、あえてこのシーンが…。そう思って、第二稿執筆時に書き加えたのである。
皆の叡智を結集してこのシーン、なかなかのものになりそうだ。乞う御期待と申し上げておく。

やっぱり私は「型」が創りたかったのだ。しかも、訳の分らないごまかしめいた「型遊び」「型ごっこ」ではなく、正当なリアリズムに基づく「必然的な型」が。

面白くなって来た。

2006年07月04日

稽古8日目(自由参加)

頼家役の川野氏と、今回の作品についてあれこれ語った。話題は多岐に及ぶが、その中から印象的ないくつかをご紹介したい。

まず、頼家は妻子をどのくらい愛していたのか、という事。
この点について、歴史的には全く不明である。親に愛されなかった子は人の愛し方が分らず、ゆえに自分の妻や子をも愛することが出来なくなる、とものの本で読んだ事がある。おそらくその通りであろう。ただ、頼家の場合は、決して政子に愛されていなかったわけではないと私は思う。プログラムにも書いたが、この話は政子頼家母子の愛とそのすれ違いの物語なのである。察するに政子は頼家を愛していた、が、どこかで何かを間違えてしまったのだ。そしてそれは、頼家をして母の愛を疑わせるほど大きな過ちであったに違いない。頼家にしてみれば「私を愛しているのかいないのか、ハッキリして下さい」とでも言いたいところではなかったか。
ともかく私は、頼家は母の愛を全く知らずに育ったという設定でこの台本を書いたのではないのだ。
すると、頼家だって妻(若狭局)や子(一幡)をそれなりに愛していたのではないか、少なくとも愛そうとしていた、愛しかけていたのではないか、という推測も成り立とう。母の影響で、人への愛し方が相当いびつで不器用になってしまっていた可能性がある彼なりに…とすれば、その妻子を殺された頼家の怒りと哀しみはなお一層根深いものがあるのかも知れない。
やはり、今月末の鎌倉・修善寺合宿において、妙本寺(比企館跡・一族墓所)は訪ねておかなければならない場所の一つであるようだ。

それにしても、政子の母は一体どんな母だったのだろう。そして政子はその母のもとでどんなふうに育てられたのか。

そして、川野氏と談じ合った話題のうちここが最も肝要な所だが、結局我々は、政子や頼家を通じて「母と子」というものを描きたいのだ、という事。否、描くという言葉を安易に使うことにも近頃の私は一抹の躊躇を覚える。ものを描くというのは、それを見下ろす絶対者の視点があって初めて為し得る営みである。古代ギリシャの劇場が巨大なすり鉢状をしているのを思い出して戴きたい。今、我々が普通に演劇と呼んでしまっているものの本質があの形にあると私は思う。観客は神の視座から、はるか下界の人間どもの愚かさを舞台上に俯瞰するのである。ちょうど貴族達が奴隷と猛獣とを闘技場で殺し合わせるように。
翻って、日本の伝統演劇はそこが違うと私は思う。能舞台の橋掛かり、芝居小屋の花道…そこでは客席は神の席ではない。役者は客席から登場し、客席に退場し、時には客席を舞台として演ずることさえ珍しくはない。つまり、演者見者が渾然一体となって神や仏に奉るのが、わが国本来の演劇の在りようではなかったか。頼家政子を依り代として、演者見者が一対の巨大な「母と子」と化する時、何かしら生まれるものがあるのではないか…。

「描写」「鑑賞」よりも「一体化」に今の私は関心があるのである。

と、そこまで話が及んだとき川野氏は、それを我々が為すに当って必要なのは「型」ではなく「術」ではないか、と発言された。今我々は「型」というより「術」とでも呼ぶべきものを模索すべきではないかと言われるのだ。「型」、それは正解のある、訓練すれば模倣可能なもの。「術」、それは正解のない、その役者以外の誰にも真似の出来ないもの。

なるほど。「型」ではなく、「術」、か。

2006年07月06日

稽古9日目(劇場下見)

今日は役者5名+舞台監督村信氏、装置渡辺氏、装束福原氏というメンバーで劇場下見を行った。

8月、ここでやるのだ…。2時間近く居座って、固く心に決めた事がある。

やっぱり「橋」を作る。何が何でも作る。そもそも台本のト書にあるのだ、「板敷の素舞台 それに向かって長々と橋が掛け渡してある」と。
客席の通路を塞いでしまうので無理かと半分諦めていたが、渡辺氏は言って下さった。橋は開演直前、即興で設えられると。

消防法に触れるというなら、いっそ椅子席を一部取り払って座布団に変えても良い。
…考えてもみれば、それもなかなか乙ではないか?

万寿がやってきた道。そして、万寿が帰って行く道。
そんな「橋」が、この物語には必要なのだ。

2006年07月08日

稽古10日目

今日から立ち稽古。が、その前にもう一度、台本を最初から最後まで読み通しておこうと思った。
出来は…まだまだである。テンポが悪い。これはもう、相互に醸し出してしまったまずさである。

悔やんでいても始まらない。いよいよ立ち稽古に入る。

ここで、川野氏にお願いをしたことがある。
頼家の生身の声ではなく、頼家の霊の声を聞かせて戴きたいと注文したのである。

夜は役者全員で、さる能楽師による能の講座を受けに行った。
ここだけの話、私は出かける前に、役者全員に言っておいた。

「騙されないように、疑いの心を忘れずに。それでもヒントになるような事は何かしらあると思います」

2006年07月09日

稽古11日目

午前中、装束担当福原氏に前回公演『香炉峯』の装束をお見せする。その時、氏から舞台衣裳について大変貴重な教示を得た。そもそも氏は衣裳に「思い」を込めすぎぬようにしておられるという。役者にとって水の如く空気の如くゼロなるもの、それが氏の心がける衣裳であるという。
翻って、「小野小町」とか「六条御息所」とか、そういう個人格を象る能面は存在しない(正確には存在するが、極めて例外的である)。可憐な乙女なら小面、嫉妬に狂った鬼女には般若…といった具合に、いわゆる「つぶしのきく」、汎用性ある面がほとんどである。
その事と氏の教唆とには、どこかしら通底するものがあるやに思われるのである。

思うに、面にせよ装束にせよ、そこに「思い」を込めるのは最終的には役者の仕事に他ならぬという事であろう。この話、体調不良のため残念ながら本日不参加の山戸氏(美術監督・面)を交えて、改めて論じ合いたいと思う。

さて福原氏は、前回公演の装束のうち、特に「里の女」(清少納言の化身姿)に手がかりを得られたらしい。

13時、稽古開始。最初の2時間ほど、「声」チーム(阿部氏・JERSEY氏)と「女」チーム(私・山本氏)に分かれて、自由に時を過す。こういう時間、非常に有意義ですね。

川野氏が来てからは、頼家シーンを重点的に稽古した。幽体離脱に狂乱に母との死闘である。氏は相当疲れたと思う。1日1ステージが限界ではなかろうかと、らしからぬ弱音を呈しておられた。
しかし、見えてきたものがあるとも言っておられた。

それにしても、立ち稽古に入ってからは殊更発見の連続で面白い。
当初の予定にはなかったが、政子が太刀を振り回すシーンまで出てきた。女にとっては相当重たい筈だ。気を付けねば。
また、今日であったか昨日であったか、山本氏が非常に印象的な事を呟かれた。
今回の稽古場、なぜか巨大なトトロの張りぼてが隅っこに置かれているのだが、氏曰く、この芝居を観てからあのトトロを見ると実に心が癒されるというのである。
なんでもない一言のようだが、この一言が数時間後、私に徹底的な示唆を与えてくれた。
これも当初の台本には書かれていない、この物語の最後のシーンが浮かんできたのである。

それはともかく、役者としての私の課題、それは政子である。母である。
己の腹を痛めた赤子のあやし方というものが正直まだよくわからない。
悩み始めた。子宮が欲しい今日この頃。

しかし共演者各位の演出補的協力によって、出演演出二足の草鞋ながら大分救われている。心から感謝している。

2006年07月13日

稽古12日目

昼間、音楽担当・奥田氏のご好意で、氏が関わっておられる舞台公演の当日パンフレットに当方のプログラムを折り込ませて戴く。一枚一枚、思いを込めて折り込ませて戴きました。
さて、夜からの稽古、まずは終盤の殺陣を仮で作ってみた。本日は川野氏がお休みなので、山本氏に頼家の代役をお願いする。殺陣のある芝居を作演出するのは今回が初めてである。とても楽しい。山本氏は殺陣師でもあり、自身で道場を主宰しておられるだけあって、「原則太刀で勝負してくれ」「ここだけは蹴りを入れてくれ」「ここらで政子を押しのけてくれ」「最後はこういう絵になってくれ」「そして瞬く間に消え失せてくれ」…などなどこちらが希望を言うと迅速かつ的確に案を出して下さる。氏が言うには、そういう希望を出してもらった方が殺陣師としてはやりやすい、困るのは「一切お任せ」タイプなのだとか。なるほど、そんな人もいるんだ。信じられないけど。
次に「声」の稽古。と言っても今日はエチュード的な内容に徹した。「声」を演ずる阿部・JERSEY両氏それぞれ、山本氏に罵詈雑言を吐きながら太刀を浴びせかけて行ってもらう。目標は「山本氏を傷付ける」事。二人とも根が良過ぎるせいか(?)かなり悪戦苦闘。悪役を研究してもらうように頼んだ。例として、角川映画『里見八犬伝』(深作欣二監督)を観るようにとも伝えた。夏木マリ・目黒祐樹両氏の悪党ぶり、直接参考になるかどうかは分らないが、まあ観ておいて損はないだろう。
二人の役作りに、期待するところ大だ。
次に「女」の稽古。政子がいかに助けを求め、侍女がいかに駆け寄って乱心の御所様を介抱するか、ひたすら研究あるのみである。そう、政子や侍女を演ずる我々(私と山本氏)は男である。今申楽版女形をつくらねばならないのだ。本物の女性であるJERSEY氏に、「女」考証を願った。いろいろと教えられる。中にはちょっと愕然とするような発見も…そうか、それで男は女々しく女は潔く、などと言われるのか。納得。
途中、台詞を間違えてしまい申し訳ありません。

皆それぞれに克服すべき課題がある。私もここ最近、政子を演ずる難しさをとみに痛感している。
つい最近も『毒になる親 一生苦しむ子供』(スーザン・フォワード著 講談社)なる本を見かけてついつい買ってしまったが…こういう書物も確かに参考にはなるが、やはり今となっては世の母親たちを観察するに如くはなさそうだ。

お母様方、勉強させて戴きます。

2006年07月15日

稽古13日目

「声」という役がある。この「声」から、人間臭を消し去りたいという思いがある。
それでいて、その役者本来の人間的魅力を損なうような事も決して本意ではない。そこが難しい。

女形。日本舞踊に学ぶところが大きそうだ。基本的な立ち方、座り方、歩き方…斜に、半身に!川野氏の御教示によれば、日舞には男が女を演じるための全ての所作が含まれているという。恐るべし。

頼家政子シーン。思うところあり、今日の政子はとことん悪魔のような鬼母で演じてみた。あとで川野氏に「3回ほど斬りたくなった」といわれた。今までの政子の台詞は正論だけに抗えない部分があったが、それが今回はなかったと。だからさほどの葛藤もなく、いつもに比べれば頼家は楽そうだった──私にはそう見受けられた。
つまりは逆効果だったのだろうと思う。私は本当は頼家を苦しめねばならないのに…。
観ていた他の役者からも「おい政子、それはないだろ」的な感想が上がっていた。
そりゃそうだろうなと演ってる私自身も思った。

母は難しい。

家臣甲乙(JERSEY氏・阿部氏)のシーンが良くなってきている。量自体は少ないが、頼家の孤独を描く為に欠くべからざるシーンである。

赤子の抱き方。これも川野氏に御教示を戴いた。氏は三年前に一児の父となられただけあってとても詳しい。右手は首に要注意、左手は体を締めすぎて窒息させぬよう…

母は大変である。

物語終盤の殺陣シーン。失われた頼家の表情がここで回復する事に。台詞も追加することに…
私の中でかねて思い浮かべていた台詞と、川野氏の口から飛び出してきた台詞が完全に一致していて嬉しかった。
ああ、このシーンに向けて全ての怒りも哀しみも収斂されて行くと良いのだが。

2006年07月16日

稽古14日目

今日は頼家+声、政子+侍女の2組に分かれて、少し自主練の時間を設けた。
「声」は人間離れを意識するあまり、役者の人間性が死んでしまっては駄目である。発声法など、役者は工夫し始めたようだ。それにしても、ただでさえ複数の人格を有しそれらが複雑に入り乱れるという困難な役どころである上に、それをしかも役者二人で演じるのだ。ゆえになおさらの事、この「声」は難しい。最初から役者に全て委ねるというのではなく、少なくとも今の段階では、ある程度こちらから分担指定が必要かも知れない。
最後はマイクを使ってやってみた。当り前だがやはり全然違って聞こえる。

政子・侍女。対話に難しいものを感じる。侍女にはイン、政子にはアウトが必要だ。
稽古の途中、本公演企画書の最後に私がしたためた文章を読んでみた。
「そして《日本》人は、既に亡くなってしまった過去の人物に対して、
『ハッキリ言葉には出さなかったけれど、いや出せなかったけれど、本当はこんな思いを抱えていたんだろうな。あの人は』
と、故人の思いを想像してその魂を慰める優しさを持っている。
勝者が正義、敗者が悪とは限らない。
死んでしまえばそれまでのこと、ではないのだ。
死んだ後も、人の一生は続くのだ。その人を偲ぶ後世の人間によって。
そんなかつての死者たちに、生前口には出せなかった胸の内を語ってもらう。
そんな演劇が、無言の国《日本》には、存在する。
今日、能楽という名の下に、その片鱗は伝えられている。
仮面を着けた俳優に死者の霊が招かれて、在りし日の真情を観客たちに吐露するという方法だ。」

やはり我々は、帰するところここに辿り着かなくてはならない。
だから、普段の「演劇」で我々が普通に使っている手が、ここ今申楽では往々にして通用しないのである。
それは、私自身の演技についても痛感した。政子の読経シーンで、私はつい「感情」を表現してしまう。そんなもの、きっと観客は眉をしかめるだろう。

政子のシーンであるが、当初、連続的に演じる予定だった2シーンを、やはり1度政子も退場させて仕切り直す方向で考える事にした。それだけ、前のシーンが強すぎるのだ。
その間を、侍女の日常的光景で繋ぎたい。掃除か?給仕か?この話に出てくる侍女は政子のお付であり、将軍の伝言を取り次ぐなどかなり高位の侍女であるので、ひとまず給仕でもさせてみるかという事になった。その方が、次の芝居にも繋がりやすい(政子が侍女の頼家毒殺未遂を疑い出す)。

とにかく政子はどんどん惨めになってきている。息子の見ていないところで、床に飛び散った彼の血を拭くしかないのだ。

2006年07月17日

頼家祭り

午前2時。昨夜稽古が終わったばかりではあるが、「朝の修善寺が見たい」という装束担当・福原氏の車に製作補・鼓之丞ともども乗り込み、一路伊豆修善寺へ。と言っても道中の記憶は皆無。「ごめんなさい、寝ます!」と叫んで寝て、気がついたら修善寺のコンビニだった。時計を見れば4時ジャスト。コンビニ到着後、なお30分ほど眠りこけていたというので、つまりは片道1時間半で来たことになる。舞台衣裳家は同時に偉大なる「走り屋さん」でもあったようだ…。

さて、ここ修善寺を訪ねるのはこれで幾度目になるだろう。前から行ってみたいスポットがあったので福原氏にお願いする。きっとそこからの眺めはいい筈だ。その名は達磨山高原。富士山と駿河湾とを一望のもとに見渡せることで有名である。案の定、すばらしい日の出を拝む事が出来た…福原氏も本懐叶った模様であった。次に、桂谷にある修禅寺奥の院へ。ここが、本作『修禅寺』のクライマックスの舞台となる。劇中、頼家と政子がこの辺りの山林から富士を眺めるシーンがある…しかし実際にはこの辺りから富士は見えない。桂谷の名の通り、この一帯は谷間であって、富士を拝したければ先の高原方面に向かって達磨山を上らねばならないのだ。
要するにこの物語はフィクションなのである。当たり前だが。

さて、明日の祥月命日を前に、本日この町で行われる頼家祭り。例年行われているそうだが、私は今回が初めてである。が、その前にまだ時間があるので、韮山方面に足を伸ばして願成就院という寺に詣でた。ここには政子の父、北条時政の墓がある。頼家の祭りの日に、併せてその仇敵の墓参りも済ませるとはいささかバツの悪い話だが、とにかくここ願成就院は車の旅でもないとなかなか来る機会がない。以前にも一度来かけたのだが、時間切れで終わってしまっていた。今日こそはと時政の墓前に祈ったものである。
「今回、完全に悪者扱いですがどうぞ御容赦を!!」
この他にもう一つ、見たいものがこの寺にはあった。政子の七回忌に甥の泰時が奉納した地蔵菩薩座像(重要美術品)である。世にはこの地蔵に政子の面影を見る人もあるらしく、見かけたあるサイトによれば通称政子地蔵菩薩とも呼ばれているのだとか(真偽の程は未確認)。
ただ私の見るところ、一般の地蔵像に比べて心なしか顔の作りがリアルな気がする。鎌倉期の作風を差し引いてみても、なお一抹引っかかるものがないではない。泰時は仏師に命じて亡き伯母の顔を模させたのであろうか。

さて、韮山から修善寺に戻って川野氏ご一家と合流。
頼家忌。現在、頼家の墓は修禅寺境内にはなく、修善寺町の管轄になっている。そこで町の依頼を受けた修禅寺のお坊様方が、頼家とその家臣達の墓前で読経供養するという形が取られているが…やはりどこか寂しいものがある。祭りの風情ではなく、在り方がである。有体に言って、非常に不徹底なものを感じる。何度もこの地を訪ねてきた私にはある程度予想がついていたが、川野氏には相当ショックだったようだ。この悔しさ、作品創りに生かそうではないか…。

修禅寺宝物館にて、「頼家の面」を福原氏とともに観る。この面とも、かれこれ深い付き合いとなる。
氏はこの面について、独自の感想を述べられた。
「頼家よりもっと前の時代の作ではないか」「頼家とは無関係ではないか」「もし関係があるとすれば、頼家をまどわした悪魔の面ではないか」「悪魔の面であるがゆえに、頼家政子の愛の力で真っ二つに割れてしまったのではないか」「もし頼家の面ならば政子が放っておく筈がない、必ず人目に触れぬよう計らった筈」
私は氏の感想に心打たれるものがあった。その場では反論できぬ何かがあった。

ともかく、世の中にはいろんな人間がいるのである。この伝承不明の一枚の古面が、かつて岡本綺堂をして『修禅寺物語』を書かせ、今また私をして『修禅寺』を書かせた。そういう力を持った面である事は疑いない。と、ひとまずそんな結論に達して宝物館を後にしたのだったが。

しかし、家に帰ってよくよく考えるに。

母親には悪魔のように見えるかも知れない。
でも、あれはやっぱり「頼家の面」なのではないか…。

2006年07月20日

稽古15日目

まず、殺陣の稽古。このシーンの稽古は、もちろん役者の安全面を考えても繰り返し行っておくべきであるが、この作品全体の演出を考える上においても非常に示唆的なものを含んでいる。ゆえに今後も毎日行いたい。

頼家と声の「洞窟」シーン。このシーンには前後2場があるが、今日は初めて後半の方を立ち稽古した。
頼家が元気過ぎると注文した。頼家の症状を考えるための一つの手がかりとして、「老い」という言葉も口にした。とにかく頼家は弱りきり疲れきっている筈だ。元気には見えない筈だ。

政子・侍女のシーン。このシーンがなぜうまく行かないか。今日は稽古を延長して、そこを皆で語り合った。そこで判ったことがある。

「演劇とは何か」という事を、突き詰めて考えねばこの公演の幕は開かない。

この当たり前の一事に気付くのに、2週間分の稽古日、期間にして1か月半を要した。
大なる収穫だったと言うべきであろう。
そして、あと1か月が残されている。あと1か月で、4千円の舞台を創らねばならない。

人間、存外変われるものだ。

2006年07月22日

稽古16日目

やるべき事は先日の稽古であらかた見えた。
何のことはない、要するにきちんと演劇を創るという事である。

今日は主に物語後半、まだ立ち稽古をつけていない場面をやった。
徐々にではあるが、光はうっすら見えてきている。進みたいと思う。

嘘はいけない。だから役者は台本に書かれていない部分を創らないといけない。
台本に書かれている事だけをやるのは、嘘だ。
嘘を真にしなければならない。

その役で生きて欲しい。その役を生きて欲しい。
その台詞が生きているかどうか。嘘つきな台詞は死んでしまっている…自戒を込めて。

夜、稽古終了後は福原氏と装束打ち合わせ。氏は稽古場に将軍御台所のイメージを持って来られた。
こちらも光が見えてきた。

2006年07月23日

稽古17日目

もう、朧太夫とやらになぞ任せては居れぬ。これからはこのわらはが筆を執る事と致す。
今日はまづ、役者皆で申楽(今は能楽とかいふのかえ)を観て参つた。曲は『鉄輪』と申した。夫に捨てられ悋気のあまり鬼と化したる女の話。よもや太夫とやらめ、この女を役作りの手本に致す所存ではあるまいの。

観終はつて稽古場に向かふ途中、阿部丈がかやうな事を言つて居られた。曰くこのところ酒の量も増え、いささか「気もたれ」が致して居る由。太夫答へて曰く、「そは正しき心の反応なるべし。世には言霊といふものありて、日頃悪しき言葉を使ひ居れば自づから心も悪しうなり行く道理なり。この本には醜き言ひざま多し、くれぐれも健康には留意せられたし」
さやうな本を書いたのは誰ぢや。さも他人事のやうな顔をしくさつて。

さて、稽古場に着いてからは、殺陣、頼家・声、政子・侍女の稽古を致した。
さう、今日から太夫と山本丈の両名、稽古中はかたみに役名で呼びあふ事にしたのぢや。

御花、久しいなう。

皆の努力の甲斐あつて、来月頭には通し稽古に入る由。
今週末には皆で鎌倉と修禅寺に参るとやら。

良いのぢや良いのぢや、何でも良いのぢや、あの子が成仏さへしてくれれば…

2006年07月27日

稽古18日目

今日は久方ぶりに、川野丈と二人きり。
髪型、血、太刀、鞠などなど、気になつて居る事どもを細かに洗ひ出して居つた。
ちなみに太夫は「走馬灯」をよく知らず、丈に教示を蒙つて居つた。(こたびの申楽で走馬灯を使ふ案があるさうな)

彼らは殺陣をただのチャンバラにはしたくないと言ふ。太刀と太刀とが斬り結ぶ時、そこにえもいはれぬ妙音の漂ふやうな、さやうな美しいものが創りたい。我ら二人が観てもつひぞ幻滅せぬやうな、本物以上の本物が創りたいと。

ほほほ。さてさて、お手並拝見と参らうか。

と、その時ぢや。丈が太夫にかやうな事を言ひ出したのは。
「最後、僕と太夫で、この親子に舞をプレゼントしませんか」

な、何ぢやと?

2006年07月29日

稽古19日目(合宿初日)

今日明日は合宿なる由にて、辰の半刻頃、役者五名鎌倉駅にうち揃ひまづは鶴岡に詣でた。公演成功を念じ、絵馬に五名連署して奉納す。
その後、大倉御所址、佐殿の墓、段葛、由比ガ浜、妙本寺、寿福寺と見て回つた。
佐殿の墓に詣でて、彼らはやうやく笹竜胆が源氏の家紋と悟つたやうぢや。太夫、勉強が足らぬて。それも見て歩きの妙味なぞと他の衆にごまかして居つたが…嘆かはしや。
段葛。二ノ鳥居から先はいづこに消えたのぢや…跡形も無く、言葉も無し。
太夫、わらははなう。この道を歩いたぞ。あの子と共に、歩いたぞ。
おぬしに、あの子を負うてこの道が歩けるかえ。

歩いてもらはねば、困るのぢや。
よしなにの。よしなに、よしなに、よしなにの。

由比ガ浜に着く。若い衆がなう、楽しげに遊んで居るのぢや。
あの子も将軍の家になぞ生まれなんだら、なう。

それにしても、川野丈。おことは心なしかあの子に似て参つたなう。

2006年07月30日

稽古20日目(合宿2日目)

役者らの泊まつた川崎屋敷は、こたびの舞台の匠・渡辺殿の仕事場兼邸宅なる由。役者といひ裏方といひ、まこと太夫は心強き仲間を得たものぢや。渡辺殿、わらはからも厚く御礼を申しまするぞ。

朝、一路修禅寺へ。

修禅寺──

御住僧方のお力尽しの故であらうか、加へて行楽の時季の為でもあらうか、今日この地にかつての陰は見当たらぬ。

まづは指月殿に詣でた。わらはの死後建てられたといふ頼家の墓、近臣どもの墓…そして修禅寺御住職との対話。御住職は本尊大日如来の胎内の黒髪をわらはの髪と断定せられた。えぬえいちけいの頼家正妻説を退けられた訳ぢや。太夫はどうぢや、いかが思ふ?「相当の曲つ毛ですね」なぞと、またぞろ他人事のやうに…ほほほ。

放光般若経。巻第二十三だけがこの寺に残り、あとは武蔵の増上寺とかいふ寺に寄進せられてしまうたやうぢや。段葛といひ、この経といひ、これが歴史といふものであらうか。往時の面影は見るべくも無い。が、僅かに残つただけでも幸と思はねばならぬのかも知れぬ。

その後、奥の院と達磨山高原を周つて、こたびの旅は終はつた。
修禅寺の方々も「楽しみにして居る」と仰せ下されたではないか。
太夫。川野丈。山本丈。阿部丈。じや〜じ〜丈。
そして囃子方、裏方の御歴々。
何卒、何卒、精一杯お勤め下されや。
無論、わらはも心待ちにして居りまするぞ。こたびの旅が、きつと彼らの申楽の為ならん事を念じ、且つ又、征夷大将軍左金吾督源頼家の菩提の為ならん事を念じつつ。

佛説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦疫 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦眞實不虚 故説般若波羅蜜多咒 即説咒日 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
般若心経

2006年08月01日

稽古21日目

今日から八月。夏バテせぬよう健康第一で望みたいものである。
前半は、しばらく段取りを保留にしていた朧太夫と朧座衆の語りの場面を稽古した。ここで、当初の予定を変更し、私は政子の装束のまま、川野氏は頼家の装束のままで行く事にした。また、川野氏にはここで朧座衆として語って戴くわけだが、それは頼家の面に関する部分についてのみという事にした。スッキリしてきたと思う。さらに、私が語っている間、その内容を山本・阿部・JERSEY各氏に寸劇風に表現してもらう事にした。これがまた、面白いシーンになりそうだ。
そして、カーテンコールの稽古。否、本当の事を言えば「カーテンコール」という呼び方は私にはなんだかシックリ来ない。そこで密かにこのシーンを私は「附祝言」と呼んでみるのである。

今、私は、この「附祝言」こそが、ある意味では本作品における最重要場面になるのではないかという予感を抱いている。

稽古後半は、全シーンを一通りやった。細部の荒が大変目立つ。特に私がだ。ごめんなさい。明後日から、また気持ちを切り替えて臨みたい。
キャラクターや雰囲気でやってしまっている感がある。また、形態模写的になり過ぎている箇所もあった。
役ではなく役者になってしまっている箇所も…。

そんな中、山本氏がとても良かった。氏の演技に、私は大分救われた。

ともあれ、そろそろ次の段階に移行すべき時に来ているのだろうと思う。
それは──「今申楽」にして行く作業である。
私の創りたい今申楽、それはたぶん「無駄のない演劇」と表現してみても良いはずだ。

無駄のない演劇。無駄という無駄を削ぎ落とした結果、何十年でも何百年でも再演に耐え得るようになった、そんな演劇。
神話的な演劇、と言い換えてみても良いかも知れない。

行うに難い事とは知っている。私だって本当は書きたくないのだ、こんな事。
しかし、書かない訳には行かないではないか。

さし当たって、無駄を削ぐ作業から始めてみようか…

2006年08月03日

稽古22日目

今日は最初、役者皆に最近の気持ちを聞いてみた。阿部・JERSEY両氏は家臣役以上に声役に難しさを感じているようだった。川野氏は、「作品を愛するだけでは駄目で、今後は見せ物にしていかなければ」、山本氏は「先日の合宿で何かが吹っ切れた。由比ガ浜までの道を歩いた事で、政子が身近になってきた」と語った。

その後、蹴鞠シーン、政子・侍女シーン、殺陣をやった。
政子と侍女の掛け合いが、相変わらず大変難しく苦戦する。
本物の女性であるJERSEY氏に政子や侍女の代役をやってもらった。学ぶところ多し。

うーむ。悔しい…。

やっぱり「女」「母」に見えないとどうしようもない。当たり前だが。
赤子の抱き方、相手へのカマのかけ方…稽古あるのみ。

役者としての「品」を維持できるようになりたい。
男の濁声を張り上げるより、いっそ裏声になってしまった方がまだしも良い…

2006年08月04日

稽古23日目

最初の1時間あまり、冒頭の太夫の語りに付ける寸劇の自主稽古をしてもらう。悪魔がバックダンサーに見えては駄目だ、しっかり弘法大師に退治されないと。
このシーン、今回の物語と直接の関係は無い。それでいて、目下私の創りたいと思っている今申楽の在り方が最も如実に発露するシーンでもある。
つまり、無駄のない演劇という事だ。全ての所作が、結果的にある種の舞と化しているような、そんな演劇の事だ。
美に濾された演劇、といっても良い。

次に、洞窟の前半シーンをやった。
なかなか難しい。声の二人が苦戦している。試みに私が声をやってみたところ、頼家(川野氏)はやりやすかったという。決して私のが上出来という訳ではないのだが。
そこで川野氏は「シェイクスピア劇の朗誦術など参考になるのでは」と発言された。私は、つまりそれは詩を読む能力の事ではないかと思った。
声の台詞を詩として読んでもらったところ、阿部氏は最初「詩」の真に意味するところがわからず苦戦したが、最終的には何かを掴みかけたようだ。JERSEY氏が読んだところ、印象的な長編詩の様相を呈してきた。こんなJERSEY氏を見るのは初めてだ。本人も初めての経験だったようで、驚いていた。「すぐにまた前の状態に戻ってしまうのでは…」と案じていた。まあ、稽古あるのみだろう。

考えてもみれば全ての戯曲は詩である筈で、そういう意味では詩的でない台詞は「無駄」なのだ。そして無駄が多いと、観客は寝てしまうのだ。
阿部・JERSEY両氏には詩を読めるようになってもらいたい。それはもちろん、単に叙情的にやるのとは訳が違う。そこのところを、終わりの方の稽古では間違えてしまったようだ。

しかし、ともあれ、一縷の光明は仄見えた気がする。

山本氏に、歩くときは一足以内の歩幅で、立つときは爪先を揃えて、とお願いした。それだけでもだいぶ違って見えるはずだ。

今日は稽古場に唄演奏の今藤氏が見えたので、終わりの殺陣からカーテンコールまでざっと流した。この辺は特に演奏陣との絡みが重要である。最後、挨拶の口調が今一つ合わない。ここはまた、稽古する事にしよう。頼家政子に捧げる舞も作らねば…。

しかし、今日辺りから少しずつにではあるが、私は政子を演るのが楽しみになってきた。そんな気がする。

2006年08月05日

稽古24日目

今日はまず、「学校の生徒では駄目だ」「自分の殻をまだ壊していない」という話から始まった。
自分の殻を壊す事は大変難しい。そういえば私の高校時代の恩師は、死にかける程の大病か大恋愛にでも遭遇しない限り、人間はそうそう変わらないというような事を言っていた。しかし自分達の仕事の場合、己の殻に閉じこもっていては良い結果は生まれない。
要するに、演劇とは病や恋にも似た所業であるのかも知れぬ。
まだ、稽古場で圧倒的なものが生まれていない。岡本太郎風に言えばベラボーな演劇、爆発する演劇が私は見たいのだ。試験の答案を書くような態度では駄目だ。そんなつもりでやっている者は今回一人もいないのであって、皆真面目だし努力家だ。しかし、それでもまだ何か大切なものが足りない。
そろそろ綺麗事ばかり言ってはいられぬ時期となった。我々は残された貴重な時間に覚悟して臨まねばならない。

政子・侍女。初めて、仮の面を着けてやってみた。やっぱり「生」は観ていられないそうだ。「生」を排する必要がある、でもどうやって?能や狂言ではないのだ、家元だの師匠だのが教えてくれるわけではない、手探りでやってみるしかない!どうにか良い方向には進んでいるようだ…だが、まだ模索中もいいところだ。
抑えるあまり、大事なものが消し飛んでしまったきらいもある。母の愛情など…ここはまた明日やろう。

声は、やはり複数の役者でやるのが良いようだ。一人でやるのとは、やはりパワーや異様さが全然違う。故に、阿部・JERSEY両氏のコンビネーション、これが命だ。

川野氏から、政子が最初から頼家と対立し過ぎているのではないかとの意見を戴いた。母は第三者の視点から我が子を見てはいない、理屈を通り抜けたところで子を信じきっているというのだ。「うちの子に限って」というのがそれだと氏は言う。
氏は、自分が親になってそれを痛感されたようだ。

それにしても今日は、侍女と格闘し頼家と格闘し声と格闘して、あちこちに痣が出来た。痛い…。

2006年08月06日

稽古25日目

全員正念場。
繰り返し繰り返し稽古あるのみ。
政子頼家、初めて仮の面を着けて臨む。

今日は打楽器演奏・内田氏が稽古場に来て下さった。持参の打楽器を試演して戴く。イノベーションを見せたところ「演奏家も装束着られるのですか、嬉しい」との事。こちらこそ嬉しく思う。

さて、今日から侍女は政子に1日1回メールを出す約束である。

2006年08月08日

稽古26日目

朝、装束担当・福原氏邸にて、装束の進行状況を確認させて戴く。頼家装束には源氏の家紋・笹竜胆が。袴部分の素地は、修禅寺で観てきた頼家の直垂を彷彿とさせるもの。朧座紋入り座衆着は受付さんにも着て頂く予定だ。楽しみだ!福原氏によれば、今申楽には入口から別世界であって欲しいとの事。スーツとかではなく。
そして今回、氏が全ての装束に優先して作って下さったもの、それはなんと「万寿」であった。母魂爆発である。髪はわざと長めにしてあって、これは政子に切ってもらいたい、政子にこの万寿を完成して欲しいとの事。今まで、稽古場では他の人形で代用してきたが、それを観て「ならぬ、まずあそこを作らねば」と痛感されたらしい。福原さんならではのお気持ちである。

というわけで、今日から稽古場に万寿が来たのである。良かった。

あとは、鞠と伊豆弁とラストの舞をなんとかせねば。

さて、今日は演奏家全員を含めての初稽古でもある。
当然の事ながら、音楽が入ると作品の印象は大きく変わる。そういう経験は今回が初めてではないが、それにしても音楽担当・奥田氏のセンスには改めて驚かされる。正直、曲を聴くのは私も今日の稽古が初めてであったので、どうなる事かと期待と不安で一杯であったが…後者の方は取り越し苦労であった。
洞窟にかかる音楽に、どこか政子の唄う子守唄と通じるものがあり、良かった。一点だけ、銅鑼の音がそのままでは寺の梵鐘には聞こえないのだが、これも内田氏がなんとか奏法を工夫してくれそうだ。(その間、修禅寺に電話して鐘の衝き方を教わるなど、いろいろ勉強出来た)
唄奏者・今藤氏の椅子をどうするか、検討を要する。

三方の思いと奏でが今回の舞台に不可欠である事を強く感じた。
これが囃子の力だ。良かった。

そして、今日からようやく監修担当・陳氏が稽古場にお目見え。氏の口から発せられる注文の数々が、今までの稽古が確かに実を結んできている事の証明ともなっている。
これまた良かった。
今日は良かった尽くしである。

2006年08月09日

稽古27日目

政子・侍女の歩き方・立ち止まり方が汚いので稽古した。
川野氏に、骨盤は女の方が大きく(赤ちゃんの出口のため)、下を向いているのだと教わった。
私は猫背になりやすい。また歩くとき、両足が左右に大きくはみ出しすぎだ。気をつけます。

その後、今日は頼家シーンを重点的に稽古した。
山本氏に政子の代役をお願いして、今日はなるべく前から稽古を観ていた。
当たり前だが、やはり前から観ると全然違う。

そして、今日の稽古を終えてよくよく感じた事がある。
改めて──頼家とはどんな人であったのか。

2006年08月10日

稽古28日目

私は今日、初めて思った。
「なかなか悪くない台本じゃないか」と…
ああ、ついに書いてしまった。作者をしてこういう馬鹿な内容を書かせるほど、それほど今日の通しは悪くなかったのだ。

そう、今日は通し稽古をしたのである。途中1度も止めずに通すのはこれが初めて。
監修・陳氏の「3割くらいの力でやって下さい」が効を奏したものか、本当にまずまずの出来だったと思う。
ただ、音楽抜きで2時間を越えていた。テンポが時代劇のそれから今申楽のそれへと変わりつつあるのだ。にもかかわらず、陳氏によれば退屈には感じられなかったらしい。
さしあたり、目標2時間といったところか。

特に、声と御花がとても良かった。

今後は、原則毎日一回は通すつもり。

2006年08月11日

稽古29日目

こういう事を書くべきなのか、どうなのか。
心が壊れつつある。稽古開始以来辛うじて続けてきたこの日誌、果たして今後も継続なるか否か。微妙なところに差し掛かってきたと言わねばならない。

辛くて書けない事も、本当はたくさんあるのである。

ま、そういう仕事である。もちろん芯は倒れないのでご心配なく。それよりどうぞ、我らの今申楽、ぜひ観届けにいらして戴きたい。よろしくお願い致します。

○今日から原則として毎日一回は通す。
○現在のところ、約2時間30分。途中省略箇所あり、音楽もなしでこの数字である。何らかの方法で短縮を図るか、あるいは休憩を挟む等するか、検討を要する。
○今日、はっきりと「現代劇」から「今申楽」の稽古へと移った。
○時を同じくして今日から山戸氏が稽古場に篭城、面制作開始。まずは2枚の女面から着手。

2006年08月12日

自主稽古

○奥田氏から子守唄の譜面が届いたのでひたすら自主練。
○山戸氏、泊り込みで面制作を進めてくれている。出来上がりが非常に楽しみな今日この頃。
○甲乙の名前を決めた。二人に、本格的に「御家人」になってもらいたいためだ。阿部氏・JERSEY氏、頼んだぞ。

2006年08月13日

稽古30日目

通し稽古。本日のテーマは「巻き気味にやってみる」。
何やら、得体の知れぬ後味の悪さあり。
政子は抑え過ぎてしまった。
ビデオで撮っておいたのを皆で観た。私を含め、芝居に無駄な間が多い。それに感情の流れなど、も少し整理した方が良さそう。声、せっかく二人息が揃って来たのだから、さらにその上を行きたい。
演出助手・舞台監督助手の弥吉氏、本日から稽古場にお目見え。よろしくお願いします。

ラストはひらすら剣舞の稽古。美しく、とにかく美しく。

2006年08月14日

稽古31日目

鎌倉の道具屋に、川野氏と二人して舞台に使う太刀・懐剣・仕込み杖を買いに行った。
考えてみたら、今回、登場人物全員、物騒な小道具を持っている。厭な時代である。
帰り際、川野氏と由比ガ浜に立ち寄った。そこで川野氏から近況など伺った。

とにかく、良い舞台に仕上げたい。
そして、今回の作品が、川野氏にとっても生涯忘れ得ぬものとなってくれる事を心から望んだ。

東京の稽古場に着いてからは、ひたすら音楽入り稽古。奥田氏に、政子の唄う子守唄をも少し庶民的な曲調に修正して戴いた。
音楽入り稽古、基本的に時間が足りない。それでも皆の努力で、終始笑い声の絶えない稽古となる。
ほんと、笑い声って大事ですね。

声に迫力が出てきた。とても良い。
演奏も、心なしか、「囃子」的になってきたようだ。

本日より音響担当・田上氏、稽古場にお目見え。音響打ち合わせ、深夜に及ぶ。大ベテランの氏からは教わる事があまりにも多い。

今日で一ヶ月。

2006年08月15日

稽古32日目

○剣舞とその直前の芝居の抜き稽古。実はここ、非常に重要な場面なのだが(それは昨日の演奏入り稽古でも痛感した)、今まで後回しにしてしまってきた。稽古中、川野氏からも頼家政子の心情について提言あり、いよいよこの場面の重要性を認識した。
政子という女は、事ここに及んでついに母の愛を証明するのである。同時に、御家人たちと頼朝未亡人との関係性が端的に描かれる場面でもある。
○通し稽古。今日のテーマは「とにかく武士の魂に慣れる!」。昨日から稽古場に武器類が到着しているのである。まずはそれらの扱いに慣れねばならない。
今日の通しは大変良かった。今までで最高の出来である。
演出助手弥吉氏の指摘は的確であった。本日の達成点をさらに上げてくれることと思う。
○この度の我々の今申楽、何としてでも多くの方に観て戴きたい。今日の稽古を観て、そう強く願った。

2006年08月16日

稽古33日目

本日、演奏家を交えての初めての通し稽古。
政子が途中観音経を読む場面がある。弥吉氏川野氏によれば、そこのところが今日はあまり長くは感じられず、今までで一番良かったらしい。
ポイントは「念彼観音力」というフレーズにあるのではないかと川野氏に言われて思い出した。そのつもりで私もこのお経を選んだのだったという事を。

奥田氏に「途中、唄の末尾が収まってしまう感じがもったいない、ここは終わりではなく入口であって欲しい」と注文したところ、今藤氏が半音上げて唄ってみせて下さった。半音上げるだけでかくも印象が違うものか。とても良い。

このところ通し稽古を重ねて来た。弥吉氏の提案で、明日は久々に抜き稽古しようということに。
芝居も音楽も仕上がって来ている。あとはラストの舞をどうするか。

本日の通し、休憩抜きで2時間18分(これでもだいぶ縮まってきたのだ!)。終始座りっ放しの演奏家の疲労を考えると休憩抜きは考えられず、10分休憩を挟んでの2時間30分が目標という事になろうと最後に話し合った。休憩入りの作品を創るのは初めてで緊張する。休憩中、政子が舞台上でご飯を食べているというのはどうかと提案したが、太夫も休め、舞台上で何かやってるとお客さんの気が休まらないからと皆に止められた。それもそうか。

あとは、ただひたすら、お客様に観て戴きたい。
幸い、読売新聞が15日夕刊に本公演を取り上げて下さった。多くの方の目に止まる事を祈る。

2006年08月17日

稽古34日目

音響田上氏に、劇中の回想シーンを録音して戴く。本日から稽古場にお目見えの照明吉川氏にも武士団の一員としてご参加戴いた。吉川さんありがとうございます。 川野さんには少年頼家の声もお願いした。梶原景高役は弥吉氏。 今日は久々に抜き稽古を行った。皆の助言に支えられつつ、政子侍女のシーンを少しずつ高めて行く。

2006年08月18日

稽古35日目

昼、通し稽古。近頃の中では最悪の出来であった。監修陳氏によれば朧太夫がもっともまずかったらしい。芝居し過ぎだという。気を付けます。
とかくナチュラルでありたいものです。
夜。政子の面やら皆の仮装束やら小道具やらが続々と稽古場に届き始める。

最近、気になる事がある。皆、体調は大丈夫か。また、木を見て森を見ずになってはいないか。
ある者に私の代役をさせた時、絶対に間違えるはずのない台詞を言い間違えた。他人の台詞という事か。ある者は「そちら」「こちら」という言葉を稽古場で頻発する。演劇という共同作業にあって偏狭な分業意識は不要を通り越して害である。また演出家に第一に提出しなければならない資料がまだ届かない
のはどういう事か。

全体を見る目のない者が演劇に参加する事は許されない。

2006年08月19日

稽古36日目

政子の侍女・御花は有体に言って大女優の役どころである。
残された時間はわずかである。「勉強になっている」では済まされない。

川野氏曰く、今日、ようやく母の愛を感じられたらしい。
一喜一憂、生みの苦しみ。

2006年08月21日

稽古37日目(稽古場最終日)

稽古場最終日。早いものである。
昼、ハープ奏者・彩氏と子守唄の稽古。続いて政子・御花。そして演奏交えての通し稽古。

生演奏・効果音・マイク声と、洞窟シーンが音の洪水になってしまった。それを除けば、まあまずまずの出来ではあったろう。緩急も生まれてきた。冗長も抑えられてきた。そして何より、役者が生きてきた。
音に関しては残りの時間のどこかで整理しなければ…。
最後は皆さんと夕食会。これが一番大切な稽古なのだと、実は私は思っている。
宴会のさなか、場内アナウンスをJERSEY氏にお願いして田上氏に録音して戴く。

深夜、川崎ファクトリーのトラックが稽古場に到着。環八の大渋滞に巻き込まれたようだ。トラック部隊の皆様本当にご苦労様でした。
そして早朝、面担当山戸氏、ついにひとまず彫刻刀を手放す。

私は、この公演が終わったあと、皆で温泉に行こうと思っている。その時は、温泉に出かける前に有志でこの稽古場の掃除を行いたい。
最初の頃は私一人で後片付けをしていたが、最近は皆が手伝ってくれる。

演劇は人間芸術である。そんな当たり前の事を3か月もの間、改めて我々に教えてくれた稽古場であった。
掛け値なく、我々の汗も涙もとことん吸い尽くした稽古場である。猫や蛙や虫などがよく遊びに来たものだ。

2006年08月22日

小屋入り・仕込み

川崎ファクトリーの皆様の尽力で、実に魅力的な舞台が出来上がりつつある。
殊に、渡辺氏が鎌倉で調達してきて下さった松がとても良い!
かつて私がいたずらに描いたイノベーションに、この松はなかった。山戸氏も渡辺氏も当初から松案を唱えていたにもかかわらず、当時の私の選択に松はなかった。してみればこの松は、稽古のある段階から私の脳裏にぼんやりと宿り始めたものと思しい。
とても良い。何者か、この松に降り立つつもりででもあろうか。

舞台関係に時間が思いのほかかかってしまい、照明音響にしわ寄せが出てしまった。明日のゲネプロは中止し、その分じっくり場当たりに集中することに。
川野氏に、明朝浅草でまつり足袋を買ってきて戴く事になった。川野さん、ありがとうございます。

そして今日は、ご協力の塩澤・犬丸両氏に本当に助けられた。殊に塩澤氏は山戸氏の注文通り、見事に頼家面を加工して下さった。頼家面といい小道具の鞠といい、氏の職人芸に本公演はいみじく支えられている。
両氏にもこの場を借りて心よりお礼申し上げる。

2006年10月27日

源頼家にまつわる、あるショッキングな伝説

今日は陰暦9月6日。という事は、ちょうど鎌倉の頼家が死の淵から蘇って、周囲を大いに狼狽させたという、あの時期に当るわけである。

先ほど、実に久しぶりに、部屋の大掃除と夕飯の自炊とを行った。どのくらい久しぶりかというと、8月の公演の準備が本格化して以来初という、私としては大変な快挙なのである。その間何ヶ月に及ぶかも定かではない。
己の性格はある程度知っている。この私が大掃除と自炊を始めた、という事は、つまり、いよいよ本格的に「我に返った」という事なのである。千秋楽からちょうど2ヶ月。正気に戻るのに2ヶ月も要するというのは、プロの芝居屋としていかがなものかと、内心忸怩たるものがある。一方で、そんなんでプロ失格と言われるようなら失格で結構、アマチュアで結構、バーカと開き直る私もどこかに潜んでいて、我ながらまったく始末に負えない。

見返してみると、この「修禅寺」のブログは、本番2日前の小屋入り・仕込み時のエントリーを最後に、事切れるようにして終わっている。本当は、他の同業者の真似をして、千秋楽までコツコツ書き続けるつもりであった。が、無理だった。白状するが、本番前日はほとんど徹夜だった。正確には1時間くらい寝たが、寝たというより、ありあまる雑務の中で突っ伏して気絶していたという方が、その場の雰囲気を言い得ている。まことにブログ更新どころではなかった。
一度禁を破ってしまうと、もう止まらない。生来のサボリ根性が頭をもたげて、本番中、ただの一言も言い残さぬまま、ついにとうとう今日に至る。

まあ、稽古場最終日までは無理やりにでもどうにか続けたのだから、稽古日誌としてはあれで良しという感じで、ひとつ大目に見てやって下さい。

とにかく、気が張っていたせいであろうか。千秋楽後は、さながら浦島太郎のごとく。我知らぬ間に、ただただ時は行き過ぎた。
むろん、この2ヶ月、単に廃人だったわけではない。公演の残務整理もある、自分の生活もある、それなりにいろいろやってはいるのだが、しかし、どこかで、心ここにあらずであった。

皆様。ただいま帰りました。

で、「ああ、自炊って良いなあ、なんて安くて美味いんだろう」などと(大したものは作ってないのだけれど)しみじみ思って、その後ふとウィキペディアで「源頼家」を検索してみて、そこで初めて、脳天に焼け火箸を打ち込まれるような感覚を味わわされたのである。

驚くなかれ。そこには、なんと、こう記されているではないか。
「(前略)反発した頼家は、比企氏と組み北条氏討伐を計るが、逆に比企氏は滅ぼされ(比企能員の変)、頼家は将軍職を剥奪され伊豆の修禅寺(静岡県伊豆市)に幽閉される。幽閉先の修禅寺では近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、現代でも愛童将軍地蔵というものが当地には残されています。翌年、北条氏からの刺客により暗殺。また、頼家の死体から大量の妖怪が生まれたという言い伝えがある。」

近隣の子供たちと遊んで面倒見が良かったなどというのは、かなりマニアックな伝承であって、私の知る限り、書籍では地元の書店発行の郷土史本の類でしか見かけたことがない。(しかし、余談だが、私はこのマイナーな伝承を、実はそれなりに重く見ているところがある。この時代の常として、怨霊説話の主となって一向におかしくない頼家がそうはならず、むしろ先述のごとき微笑ましい伝承が、しかも民間にささやかに残されている辺り、何かしら示唆的なものがあるやに私は思うのだ)
しかし、これは頼家や修禅寺について調べた者ならば出くわす話である。
私が己の目を疑ったのは、最後の一文だ。

「また、頼家の死体から大量の妖怪が生まれたという言い伝えがある。」

こ…これはいったい…。
この記述は、いささか刺激が強すぎる。心臓の弱い者が読むとショック死する恐れがあるのではないか。
「頼家の」「死体から」「大量の」「妖怪が」「生まれた」
どの文節を取り出してみても、十分にショッキングであり、読む者をして打ちのめさずには置かぬ破壊力を秘めている。否、秘めてなどいない、むき出しだ。
こんな言い伝えに接するのは、初めてである。
どなたか、詳細を知っておられたら、是非とも御教示を願いたい。

2007年01月26日

台本改訂中

ご当地・修禅寺境内での公演。いよいよ諸準備が本格化してきた。
出演者を募っている。我は思う方、是非奮ってご応募されたい。

とにもかくにもお寺の千二百年祭を盛り上げる大役。大変な光栄である。

台本に手を入れ始めた。前回は、途中休憩15分を挟んで2時間半という長さになってしまった。長いとは思いつつ、どこをどのように切れば良いのか、不覚にして当時の私には分らなかった。
しかし、実際に本番をやってみて、そしてそれから5ヶ月の時が経ってみて、今ならようやく分かるという事柄が非常に多い。
そういうわけで、今は黙々と台本をいじっている。いじりながらつくづく思う、「『修禅寺』は終わっていなかった」と。

何しろ夏の野外公演である。暑い、蚊にも刺される、かれこれ案ずるに、1時間半以内にはおさめたいと思うのである。相当切らねばならない。苦心の末ようやくの思いで搾り出した台詞の数々、時には思い切って場面ごと鋏を入れたりもする。こういう作業が私には案外楽しい。

しかしまあ、この台本とのつきあいもそろそろ2年半である。

2007年02月20日

修禅寺千二百年祭 勧進今申楽 第一稿完成

今年7月、修禅寺境内において『修禅寺』の再演を行わせて戴く運びとなった。
これは、「今申楽 朧座のための旅公演」ではない。「修禅寺の開創千二百年祭を皆でお祝いするための勧進公演」なのである。ここがポイントである。

したがって、「朧座の修禅寺公演」というような言い方はやめ、今後は「修禅寺での勧進今申楽」で行こうと思う。

さて、その勧進今申楽の第一稿が出来た。
基本的には昨年の初演版を短くしただけの作業なのだが、それでも終えてみるとだいぶ肩の荷が下りた気がする。
初演は休憩をはさんで2時間半だった。これを、休憩なしの1時間半以内に縮めたいのだ。
大幅に鋏を入れたが、入れすぎたかな…という気もしないでもない。いや、それとも本当はもっと入れるべきなのか?本を切れば事足りるというわけでもなく、今にして思えば演出的にもだいぶ短縮の余地はあった。

ともかく完成稿までには、まだしばらくかかりそうだ。

2007年05月14日

自分を思い出してくれることが嬉しい

先日、関西のお寺で、「僧体験」をしてきた。実は、私がこのお寺でこれを行わせて戴くのは今回が二度目である。前回は、一昨年の春であった。
読経に写経、座禅、その他一通りの事は体験出来るのである。私は、前回は北条政子、今回は源頼家、いずれにしても出家役であるから、たった1泊2日とはいえ、僧侶の生活を送ってみることは意義あることと思い、再び門を叩いたのであった。前回同様、温かくご指導下さった先生方には、心から感謝している。が、今回は少し残念なこともあった。
宿坊に泊まりに来ている学生たちが、朝まで宴会し、大騒ぎをしていたのである。場所柄を弁えぬ者たちにも腹が立つが、それをお寺のどなたもが止めておられぬという事実が私には悲しかった。

僧体験を終えたのち、京都に頼家ゆかりの寺があることを思い出し、拝観時間は終わっていたがお訪ねしてみた。初対面にもかかわらず、お忙しいなか話を聞いて下さり、チラシを寺に置くから送って欲しいとまで仰って下さったのが本当に有難い。
それにしても、頼家と言うと馬鹿殿のイメージばかりが先行しているが、実はこんな立派なお寺の御開基様でもあるのである。この事は、もっと知られて良い事であろう。

「故人は自分を思い出してくれる事が嬉しいのだ」と、これは今回の旅のさなかに出会ったとあるお方が私に教えて下さった事柄である。この言葉に、私は大変勇気付けられた。

そして、この頼家の建てたお寺に初めて足を踏み入れて、再び、その言葉を思い出した。

2007年06月21日

本稽古初日

修禅寺開創千二百年祭 勧進今申楽『修禅寺』、早いものでついに本番1か月前となった。
粛々とやるべきことをやって行こう。

今日の稽古あたりから、「演劇」と「芸能」の差が曖昧になってきた。自分でも、「演出」をしているのか「振付」をしているのか、どちらとも言い難い時がある。
正しい方向だと思う。

2007年07月11日

突然ですが

本日17時10分からのNHK静岡『たっぷり静岡』に出演致します。
静岡の皆様、お時間あれば是非ご覧下さい。

2007年07月15日

太田省吾氏逝去

氏の講演や著書からは多くの事を学ばせて戴いた。今申楽の稽古をしながら、つい気持ちに迷いが生じた時、エッセイ集『舞台の水』(五柳書院)を読んで勇気を取り戻したりもした。

ついに直接お話しする機会も、私の台本を読んで頂く機会も得られずじまいとなってしまった。

心よりご冥福をお祈り申し上げる。

2007年07月17日

本番まであとわずか

15日の産経新聞朝刊に勧進今申楽の紹介記事を掲載戴きました。

稽古場に記者の方が見えたのは初の通し稽古日。まだ人にお見せできるようなものではなかったのですが、帰り際に温かい励ましの言葉をかけて戴きました。
日々、大勢の方々からエールを戴いております。本当に有難うございます。

本番まで残すところわずか。天気予報によれば、21日は曇時々晴、22日は曇。
きっと晴れるでしょう!

2007年10月29日

台本奉納

今月23日、修禅寺での座禅会に参加させて戴き、併せて勧進今申楽の台本をお寺様に奉納して参りました。
実は、公演翌日の7月23日、お寺での片付けが終わるや否や現地を発たざるを得ない状況でしたので、奥之院にも頼家公のお墓にもお礼参りが済んでおりませんでした。後日、近いうちに…と思っているうちに、あっという間に3か月が経ってしまいました。
ようやく、念願を果たすことが出来ました。
ちょうど公演のDVDも完成したところでしたので、台本と併せて御住職にお渡ししたところ、御法話のあと、御参加の皆様に上映会を催して下さいました。皆様大変真剣に御覧下さいました。そのあとで、御住職が「これ以上のものは、ない。」とおっしゃって下さいました。また、「能が効いていますね。」とも。
私自身は、このDVDに目を通すのは数回目でした。初めは、私自身の演技に忸怩たるものがあり、なかなか素直に目を向けることが出来ませんでした。が、やがて他の出演者の演技(囃子を含む)に深く引き込まれていくようになりました。また、私自身の演技がそれによって支えられていることも、見ていてよくわかるようになりました。

ですから、御住職をはじめ皆様が御覧下さったこの段階では、自分の演技をも含めた作品の全体を、わりと穏やかな心持ちで見ていることが出来ました。

私の中で、ようやくこの作品が一つの区切りを迎えることが出来たようです。

2007年11月06日

ご縁

「家は末代、名は一世」。
先日、友人の結婚式があり、その際新郎のお父上から教えて戴いた台詞です。
『頼朝の死』という新歌舞伎の中に出てくる、北条政子の台詞だそうです。
(私、その時はてっきり同じ新歌舞伎の『修禅寺物語』の話題かと勘違いしておりまして、「え?政子?出てこないはずなのにおかしいなあ…」などと思いつつ、とうとうそのことをお尋ねするきっかけをつかめずじまいでした。『頼朝の死』という別の作品だと知ったのは帰宅してネットで調べてからの話であります。お恥ずかしい…)
長男頼家や政子の侍女らが重要な役どころで登場するとのこと。見てみたくなりました。

もう一つ、最近ある本を読んでいて知ったのですが、司馬遼太郎が「もしシェークスピアが政子を知っていたら、『政子』という戯曲を書いていただろう」というようなことをどこかで言っているらしいのですね。
どこで言っているのでしょうか。ご存知の方、教えて戴ければ幸いです。

ちなみに先述の友人夫婦は、昨年の『修禅寺』東京公演の同じ回をたまたま観て下さったのがきっかけで出会われたとのこと。スピーチでも申しましたが、新郎新婦におかれましては是非一度、いつかご一緒に修禅寺にお参りをなさると宜しかろうと存じます。
この度は誠におめでとうございます。

ご縁

「家は末代、名は一世」。
先日、友人の結婚式があり、その際新郎のお父上から教えて戴いた台詞です。
『頼朝の死』という新歌舞伎の中に出てくる、北条政子の台詞だそうです。
(私、その時はてっきり同じ新歌舞伎の『修禅寺物語』の話題かと勘違いしておりまして、「え?政子?出てこないはずなのにおかしいなあ…」などと思いつつ、とうとうそのことをお尋ねするきっかけをつかめずじまいでした。『頼朝の死』という別の作品だと知ったのは帰宅してネットで調べてからの話であります。お恥ずかしい…)
長男頼家や政子の侍女らが重要な役どころで登場するとのこと。見てみたくなりました。

もう一つ、最近ある本を読んでいて知ったのですが、司馬遼太郎が「もしシェークスピアが政子を知っていたら、『政子』という戯曲を書いていただろう」というようなことをどこかで言っているらしいのですね。
どこで言っているのでしょうか。ご存知の方、教えて戴ければ幸いです。

ちなみに先述の友人夫婦は、昨年の『修禅寺』東京公演の同じ回をたまたま観て下さったのがきっかけで出会われたとのこと。スピーチでも申しましたが、新郎新婦におかれましては是非一度、いつかご一緒に修禅寺にお参りをなさると宜しかろうと存じます。
この度は誠におめでとうございます。

2009年06月08日

自分の作品を練り続けていられる幸せ

今度の9月に上演する『修禅寺』は、仏教の話である。
北条政子と源頼家。現代人となんら変わらぬ問題だらけのこの親子が、形ばかりの出家者から、本当の意味での仏に近づいて行く。その過程を描いた物語である。
という、たったそれだけの事に、3度目の上演にして初めて気が付いた。
これは、私以外の演出家であれば、実はすぐに見抜けたことなのかも知れない。自分の書いた台本に対し、真に客観に徹することは簡単でないとつくづく思う。作と演出を兼ねることに批判的な立場があることや、作・演出の兼任を認めるかわりにドラマトゥルク(ドラマターグ)を立てるやり方があることなどが、それを物語っている(朧座は後者)。
言ってみれば、自分の書いた台本は我が子も同然で、なかなか子離れが出来ないのだ。それが、3度目にして、ようやく少しはへその緒が切れてきたという感じ。
なんだか親馬鹿な文章でごめんなさい。

とにかく、『修禅寺』は、仏の話なのである。
書いた私が言うのも変だが、タイトルを見ただけで気付けよ俺、という心境である。
というわけで、最近、仏教に関心を持っている。

仏教は面白い。否、有難いという方が適切か。
仏の説いた教えであり、かつまた、自らが仏になるための教えでもある。
仏像だけじゃなく、お経の一文字一文字が、既に蓮の上の仏である。
などなど、おい、そんなの、学校じゃ一言も教わらなかったぞという感じで、日々、目から鱗である。昔、京都の寺で口から仏像を吐いている坊さんの像を見かけたことがあったが、ああ、そんな深い意味があったのか…と、驚きの連続。

自分の作品を練り続けていられる幸せを噛み締めている。
本作に関わって下さった方々、これから関わって下さる方々、もちろんお客様を含めて、全ての皆様に感謝致します。

自分の作品を練り続けていられる幸せ

今度の9月に上演する『修禅寺』は、仏教の話である。
北条政子と源頼家。現代人となんら変わらぬ問題だらけのこの親子が、形ばかりの出家者から、本当の意味での仏に近づいて行く。その過程を描いた物語である。
という、たったそれだけの事に、3度目の上演にして初めて気が付いた。
これは、私以外の演出家であれば、実はすぐに見抜けたことなのかも知れない。自分の書いた台本に対し、真に客観に徹することは簡単でないとつくづく思う。作と演出を兼ねることに批判的な立場があることや、作・演出の兼任を認めるかわりにドラマトゥルク(ドラマターグ)を立てるやり方があることなどが、それを物語っている(朧座は後者)。
言ってみれば、自分の書いた台本は我が子も同然で、なかなか子離れが出来ないのだ。それが、3度目にして、ようやく少しはへその緒が切れてきたという感じ。
なんだか親馬鹿な文章でごめんなさい。

とにかく、『修禅寺』は、仏の話なのである。
書いた私が言うのも変だが、タイトルを見ただけで気付けよ俺、という心境である。
というわけで、最近、仏教に関心を持っている。

仏教は面白い。否、有難いという方が適切か。
仏の説いた教えであり、かつまた、自らが仏になるための教えでもある。
仏像だけじゃなく、お経の一文字一文字が、既に蓮の上の仏である。
などなど、おい、そんなの、学校じゃ一言も教わらなかったぞという感じで、日々、目から鱗である。昔、京都の寺で口から仏像を吐いている坊さんの像を見かけたことがあったが、ああ、そんな深い意味があったのか…と、驚きの連続。

自分の作品を練り続けていられる幸せを噛み締めている。
本作に関わって下さった方々、これから関わって下さる方々、もちろんお客様を含めて、全ての皆様に感謝致します。

2009年07月28日

現状報告

◎9月の『修禅寺』の稽古が始まった。
このブログにもしたためたいことは山のようにあるのだが、毎度の事ながら言い訳させて戴く、いかんせん時間がない。げにげに、草鞋の履き過ぎは禁物である。
ほんと、ごめんなさい。

◎そんななか、先日、伊豆修善寺温泉の頼家祭りを見物。私もお寺様や地元の皆様のあとから、頼家公・十三士墓前にて御焼香に加わらせて戴いた。
妻若狭局・子一幡を従えての頼家行列。
地元の方々の心尽くしのお祭りに、頼家公も十三士も喜んでいるのではないかと私は思う。
さるホテルで自転車をお借りし、ようやく奥の院にも公演のご報告に参じることが出来た。

◎稽古は目下のところ、探り探り、しかし少しづつ、前に進んでいる。
やはり語りの問題があるのだと、このところ気付かされた。基本的には、本作『修禅寺』においては語りの文体を敢えて排し、極力、会話劇の手法で書いたつもりであったのだが。
しかし、本質的にはやはり語り物であるらしいのだ。これは私にとって嬉しい発見である。
だって、私は結局のところ、語り物がやりたいのだから。
前近代の日本の演劇が総じて持っていた語り物の伝統を、黒船にもめげず、原爆にもめげず、私は現代日本演劇の庭に接ぎ木したいと思っているのだから。
これは、私一人の儚い希望などでは決してない。

◎先日の稽古で、「しおり」「もろしおり」という能の型の話が出た。
片手で泣いて見せる「しおり」だけで十分にかなしみの表現なのであって、これが両手を挙げて泣く「もろしおり」となると最高のかなしみ、あまりにも強烈なかなしみになってしまうということを役者に話すと、混乱させないでくれ、だったらあそこは現状の「しおり」的演技より「もろしおり」的演技の方がいいんじゃないか、というような話になった。そういう込み入った話になって、ようやく演出として気がついたことがある。
いささか話が専門的になり恐縮だが──、それは「日本の演劇」というものを私なりに考える上で、実に示唆に富む発見だったのである。

2009年08月05日

稽古場日誌

なるものを、つけてみたこともあった。『修禅寺』初演時である。
それはそれで、ある種の意義も達成感もあったのだが(確か、悪ノリで、途中北条政子になって書いたりした記憶がある)、その時以来、とんとご無沙汰している。
またいつかつけてみようかな、などと思いつつ、今回の稽古に入ってから早くも半月あまりの日々がうち過ぎてしまった。
稽古場日誌は、微妙である。作・演出としては、やはり、気軽には綴り難い部分もあるのである。
いーじゃん、作・演出で、しかも気軽に綴っちゃえば。という声が聞こえそうだが、ごめんなさい、そういう性格でないんです。
でも、頑張って、少しは更新率を上げようかな、などと思ってみたりもする。思っているだけかもしれない。
ちなみに、声役の田渕正博さんの稽古場日誌はこちら
田渕さんの稽古場日誌は、面白い。私は、田渕さんの芝居がある時にはよく読むのだけれど、さすがに今回ばかりは目を通すのがちょっと怖い。
いーじゃん、気軽に読めば。という声が聞こえそうだが、ごめんなさい、そういう性格でないんです。

性格変えよかな…

稽古場日誌

なるものを、つけてみたこともあった。『修禅寺』初演時である。
それはそれで、ある種の意義も達成感もあったのだが(確か、悪ノリで、途中北条政子になって書いたりした記憶がある)、その時以来、とんとご無沙汰している。
またいつかつけてみようかな、などと思いつつ、今回の稽古に入ってから早くも半月あまりの日々がうち過ぎてしまった。
稽古場日誌は、微妙である。作・演出としては、やはり、気軽には綴り難い部分もあるのである。
いーじゃん、作・演出で、しかも気軽に綴っちゃえば。という声が聞こえそうだが、ごめんなさい、そういう性格でないんです。
でも、頑張って、少しは更新率を上げようかな、などと思ってみたりもする。思っているだけかもしれない。
ちなみに、声役の田渕正博さんの稽古場日誌はこちら
田渕さんの稽古場日誌は、面白い。私は、田渕さんの芝居がある時にはよく読むのだけれど、さすがに今回ばかりは目を通すのがちょっと怖い。
いーじゃん、気軽に読めば。という声が聞こえそうだが、ごめんなさい、そういう性格でないんです。

性格変えよかな…

2009年08月19日

申楽とは何か

昨日は出演者と鎌倉見学。
鎌倉には、『修禅寺』の公演の度に来ている(過去2回)が、今回初めて江ノ島に足を伸ばした。ここは、話に直接の関係がないので今までは割愛してきたのだが、行ってみて正解だったと思う。源氏にとって鶴岡八幡が欠かせぬ存在であるように、北条氏にとってはここ江ノ島が極めて重要な位置を占めているのだ。島内の随所で見かける北条氏の家紋・三つ鱗がそれを物語る。
殊に、奥津宮のさらに奥にある江ノ島岩屋の存在が、私には台本執筆時からどうも気になっている。ここは、実は富士の人穴とつながっているという伝説があるのだ。
富士の人穴…浅間菩薩…江ノ島弁天…北条政子…。
あるいは、これらが一直線上につながる可能性もある──などというと、これはもうほとんど諸星大二郎の世界になってくるわけだが、白状すると、私は『修禅寺』初稿時から「くさい」と思っている。
ほんと、富士山とか、爆発しないで下さいね。
そして今日は稽古オフ。製作関係で走り回る1日。その合間に、改めて考えた──申楽とは何かという問題を。

思えばこの1週間の稽古、私は己の申楽、それも今の申楽を求めてあなたこなたを随分とさまよった。

明日からの稽古で、私はそれを結果にして行く。

2009年09月13日

絶望しない

例えるなら、一昨日あたりのことが1週間くらい前のように思える、そんな日々。
希望と不安が錯綜する中、本番の足音は否応なく迫りつつある。

まあ、いつものことといえば、いつものことではあるのだが。

稽古場でつくづく感じていること、それはとりもなおさず
「日本文芸史における近代と前近代との圧倒的断絶」
である。この溝の深さは、一見、絶望的である。

だが、しかし、私は絶望しない。
なぜならば、我々が創っているのは「今」申楽なのだから。

実のところ、私にとって、今ほど魅力のない時代はない。
私を「生まれてくる時代を間違えた」と評する人があるが、その通りかもしれないと思う。
懐古趣味に耽溺するつもりなど、さらさらない。
単純に、近代人はあまりにも日本文芸の伝統を忘れ過ぎている。ただその一点と言ってよい、私の主旨は。

なるほど、私が生まれる前、確かにこの国は敗れてしまったらしい。
虚ろな時代に生まれついたものだ。

だが、まだ、この国の言語は辛うじて生きている。生きているはずだ。
その思い一つを糧に、私は今、稽古場に立っている。
「今」申楽を創り続けている。

伊豆修禅寺の宝物館で見かけた、ある経本の末尾に付された1行の文字列。
それが、私を支えている。
果たすべきことの大きさを思えば、些事にかまけている場合ではない。
まもなく、本番を迎える。
是非、多くの方に見届けて戴きたい作品である。

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