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修禅寺 アーカイブ

2005年04月12日

頼家と政子の旅が始まる

今申楽第二回公演『修禅寺』、その脚本第一稿をつい先程書き上げたところである。

先日、ちと山梨に散歩に出かけた折、久方ぶりに甲斐善光寺に参詣した。で、すっかり忘れていたのだが、この寺の宝物館には源頼朝及び実朝の木造坐像が安置されていたのである。
ここで彼らの像に思いがけず再び出会ったのも、何かの縁かも知れぬ。そう思って、彼らに、今申楽第二回公演の成功を祈念する事にした。
先ず、頼朝像に向かって。「御長男並びに令夫人を取り上げさせて戴きます」
次に、実朝像に向かって。「兄君並びに母君を取り上げさせて戴きます」
そうして、最後にこの二体の将軍像に向かって。「何卒宜しくお願い申し上げます」

「あの二人を頼む」
二体の将軍像からも、そう、頼まれたような気がした。

話は変わって、今年のNHK大河ドラマ『義経』には、頼朝夫婦も登場しているのだが、時間がなくてあんまり真面目に観ていない。たまにはチェックしとくかと思ってテレビをつけたら、いきなり平幹二朗(後白河院)・夏木マリ(丹後局)両氏の顔がアップで画面に映し出された。
うわっ妖怪、私が見たいのは今回はあなた方じゃないんですが…と思ったらすぐに伊豆のシーンに移った。そうそう、こっちをチェックしときたいのである。
つまり、他の作家や脚本家が、京都じゃなくて東国ってものをどう描いているかに、今はいささかの関心があるわけだ。
頼朝・政子・時政(それぞれ中井貴一氏・財前直見氏・小林稔侍氏)が、平家に叛旗を翻そうとかなんとか、謀議している場面である。うーん、政子って、頼朝の生前からあんなに政治家然としてたんだろうか…個人的にはやや疑問。しかしともかく、主役の義経チームより、こっちの連中の方がなんだか存在感があるなあ…
そのうち、万寿(後の頼家)も出て来るのであろうか。

というわけで──今申楽第二作『修禅寺』は、源頼家と北条政子、この親子の物語である。
ともかく、第一稿は上がった。これから、頼家と政子の旅が本格的に始まるわけである。
執筆に今までのところ、約九ヶ月を要した。
この間、朧座衆の面々からは、様々の有難い助言と激励とを戴いた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

また、友人のM氏には、別して謝意を表したい。私は、彼女との交流の中で、自分という者が今回の台本を書くに当たっての指針を見出だす事しばしばであった。

2005年06月13日

シナリオ完成が先でしょ

今申楽次回公演『修禅寺』のフライヤー、源頼家役と北条政子役、二人の主演者が対峙している写真を用いるのはどうか。
前回公演『香炉峯』では、俳優の写真を一切使わなかった。が、効果的に使う手もあるだろう。
ふと、そんな事を思いついて、意見を問うべく香港のデザイナー(朧座美術部)にスカイプをかけたところ、「うん、悪くはないかもね。でも、シナリオ完成が先でしょ」とあっさり言われた。

まあね…。

残念ながら、台本完成が遅い劇団は誠に多い。演劇の質の向上に、決して益するものではないと考える。
反面教師と心得ねば。

2005年07月05日

作曲家奥田氏との初対談

来年当座で上演予定の『修禅寺』の音楽面について、先日、作曲家の奥田祐氏と話し合った。
氏には、『修禅寺』の音楽創りをお願いしている。今回は初の創り手対談という事で、作者である私と差しで3時間半ほどじっくりと。

参考になりそうなビデオやCDを視聴しつつ、『修禅寺』第一稿を前に、これをいかに第二稿に繋げて行くべきか、互いの意見を忌憚なく出し合った。
我が国の芸能史。台詞劇と音楽劇の関係。古今東西の楽器論。議題は盛り沢山である。
その内容をここに詳らかにする訳には行かない訳で、これが誠にもどかしい。
月並みなセリフで恐縮だが、観てのお楽しみと申し上げるより他はないのである。
ともあれ、無から何かを生み出す喜び、それを分かち合える方と出会えた事に、心から感謝したいと思う。

2005年07月11日

頼家と政子の祥月命日

週刊誌『AERA』今週号に興味深い記事が載っている。曰くオタクビジネス爆発、わびさびに続く日本の新文化「萌え」市場に熱い視線が注がれているとの事。で、この記事の冒頭に修善寺が取り上げられているのである。
記事によれば、修善寺のさる温泉宿が今、鉄道ファンに人気なのだとか。この宿、6年前に宴会場を潰し、大型鉄道模型を並べて遊べるスペースに改造。最盛期には約30軒あった修善寺の旅館が約20軒に減った今、ここの客数は改造前から1.5倍に伸び、その9割以上が鉄道模型ファンで占められていると言う。年に数回来ると言う客のコメントが紹介されていた。
「修善寺にこの旅館以外何があるか知りませんね」

修善寺には、温泉宿の他に、修禅寺という名の寺があるのである。
と言うか、この地名はもともと寺の名前に由来しているのだ。地名と寺名が一緒では紛らわしいので、のち地名の場合は「善」の字を用いるようになったのである。

この客、鉄道ファンと言うが、各駅付近の見所なんかにはてんで興味がないのであろう。鉄道ファンには、駅名や路線図、またその一帯の観光事情等に通暁する地理系と、もっぱらその造形美に耽溺する車両系の二派があると聞く。
「食事も、ある程度うまけりゃなんでもいい」そう言って持参のふりかけを食卓に並べると言うのだから、これは旅先の地味に舌鼓打つなんてタイプではない。明らかに後者、それも相当重度なお人であろう。

それにしても、思う。
宴会場を潰して小劇場を興そうという粋な旅館が彼の地にあれば、さっそく企画書を持参するものを…。
とまあ、これは半ば冗談であるが、今週末、私はほぼ一年ぶりに、その修善寺に赴く。

昨夏は、ある日突然思いついて独りで出かけたのであった。その約8ヶ月後、私は今申楽次回作『修禅寺』、その第一稿をどうにか書き上げる事となる。
先ずはその脱稿を、二人いる主人公のうちの一人・源頼家の墓前に報告する事。それが今回の旅の大きな目的となるであろう。

今回は、朧座制作部の笛麿・鼓之丞が同伴してくれる。実は彼らは「勤め人」という裏の顔を持ち合わせているので(もっとも勤め先から見れば、「朧座制作部」とやらこそ裏の顔に他ならぬ訳であるが)日頃多忙な彼らにとっては夏休みの旅でもある。

頼家は、修禅寺門前の指月丘に眠っている。
我々の行く17日には、頼家忌という地元の祭りが執り行われるらしい。
翌7月18日は、旧暦で頼家の祥月命日に当たる。

そして本日7月11日は、これも旧暦で、今一人の主人公・北条政子の祥月命日に当たるのであった。

2005年08月25日

始動の時

23日、演出家決定。私朧太夫と陳俊宏(朧座演出部)の共同演出とする。
24日、「面」「装束」並びに朧太夫との共同制作で「作り物」(簡素な舞台装置)以上三点の制作を、さる造形作家にお願いするべく、台本を手渡しする。正式な御返事を戴くのはもう少し後の事となろうが、どうも修禅寺という寺にはここ最近縁を感じておられたらしく、前向きに考えて下さるようだ。

脚本第二稿に向けての蓄積も相当進んできている。第一稿はともかく、いわゆる演劇台本の文法に従って書いた。第二稿では、これをいかに「今申楽」のための台本に展開して行くかが私の課題である。ま、あまり書くと「ネタバレ」になるので奥歯にモノの挟まったような書き方しか出来ぬ事がもどかしい。観阿弥世阿弥も言っている、秘すれば花なり、秘せずは花なるべからずと…

そしてまもなく、上演日程並びに会場が正式決定の見通しである。
今申楽第二作『修禅寺』、いよいよ本格的に始動の時を迎えつつある。

2005年09月07日

鎌倉武士の世界の物語

私は、今申楽次回作『修禅寺』脚本第一稿に「作者覚書」なるものを付して、そこでおおよそ以下のような事を書き付けている。

「もしかしたら、客席のどこかで、この作品の主人公である源頼家や北条政子がこの作品を観届けてくれているかも知れない。おそらくは、別々の席で…しかし帰って行く時は、親子、手を繋ぐまでは行かなくても、せめて、一緒に帰路について戴きたい──と、作者としては切に願うのである。」

そして、場合によっては、この文章をチラシの片隅にでも載せても良いかな、などと思っていた。

だが、どうやら私は間違っていたのかも知れない。
その事に、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を読んでいて、ようやく気が付いた。
もしも、私のこの度の読みがそこそこ的を射ているとするならば──あの書物には、思わぬ真相が暗に示されている事になる。

一緒に帰路になどつくだろうか。否、そんな筈はないのだ、きっと。

脚本を一部、書き改める必要がありそうだ。

その為には──ともかく、『吾妻鏡』に出てくる「あの場所」に行かなければならないだろう。
前々から一度は訪れる必要があると感じてはいたが。

『修禅寺』。それはあくまでも鎌倉武士の世界の物語である。質実剛健とは言い条、太刀と太刀とが火花を散らし、肉が裂け血が流れ、あまたの命が日常茶飯事の如くに失われる、そんな世界の物語なのである。
太平の御世のお気楽剣劇、チャンチャンバラバラチャンバラバラ、の世界ではなかったのだ。

2005年10月13日

第二稿に向けて

私の芝居をよく御覧戴いているSさん(当座の旗揚げ公演『香炉峯』も観て下さっている)から、昨日こんなメールを頂戴した。
「次回作に向けてのご様子をHPで拝見しました。丁度、マンガ日本の古典『吾妻鏡 上・中・下』竹宮惠子作を読んだ後なので、大変興味深いです。」
こういうメールを戴くと、次回作『修禅寺』第二稿に向けて、ああでもないこうでもないと悩ましい今日この頃、泉のように勇気が沸いてくる。Sさん、ありがとうございました。
竹宮氏の漫画は、私も楽しく読ませて戴いた。氏が描くとどうしても美男美女の世界となる。好悪の分かれるところであろうが、果たして北条政子はあんなに美人だったのだろうか…と、いささか思わぬでもない。いや、案外、美人だったのかな。

北条政子は一体どんな顔だったのだろうか。近頃とみに気になり始めた。
これというのも、次回公演の日程・会場が決定したからであろう。
折を見て、当サイトに発表したい。

そして先日、鼓之丞(朧座制作部)とともに「あの場所」へ見学に行ってきた。
そこに行かぬ限りは、台本完成はない。と、以前から直感的に察していた場所である。

さて、行ったからとてめざましく筆が進むかと言えば、そういう訳でもない辺り、もどかしい。
しかし、行って良かった。やはり、一度は訪れておかねばならぬ土地であった。これだけは確かに言える。

本を書かねばならぬ時というのは、私の場合正直に言って半ば狂人半ば廃人の体である。ためにどうしてもブログ更新どころではなくなるというのが偽らざるところ、新記事をお待ち下さっている皆様には申し訳なくただただお詫びを申し上げる。ごめんなさい。
「日々朧々」も、そろそろ「時々朧々」辺りが相応しいかも知れぬ。

2005年10月21日

モデル発見

最近は今申楽次回作『修禅寺』の公演日程・会場が本決まりした事もあり、はや逃げも隠れも能わぬ仕儀と相成って、第二稿に悶々とする日々である。
こうなると、朝な夕な念じ続ける事はただ一つ、
「今、私が事故なり病気なりにあって死んでみよ。『修禅寺』は第一稿があるばかり。朧座衆はそれを元に何とか上演にこぎつけてくれるであろうが、さて、それで私は本当に成仏出来るであろうか」
また縁起でもない事を書いてしまった。しかしこうでも思わぬ限り、筆の進みがのろくてのろくて、何より書いている本人がたまったものではない。

かかる折は気分転換が何よりの大事。
先日、ついに煩悶やる方なく、ええままよと、足の向くまま神奈川県のさる土地に気晴らしに出かけた。
と、そこで思いもかけず出会ってしまった訳なのである。

この作品の、二人いる主役のうちの一名と、今ひとり大事な脇役。
この二人が、なんとそこにはいたのである。

「ユー!」と叫んで街中の美少年を発掘するという、かの芸能事務所社長の心持がいささか分かる気がした。
ああ、人生はなんと未知と不思議とに満ちてある事か。
呆然と立ち尽くし、いつまでもいつまでも、ガラスケースの中に仲良く居並ぶその二面をためつすがめつ眺め続ける事であった。
帰りの車中の心中朗らかなる事、申すまでもない。あな、よき日なりけり。

「修禅寺」の読み方

先日、某テレビ局の地域紹介番組で伊豆修善寺が取り上げられていた。
で、この番組、地名としての修善寺をシュゼンジ、寺名としての修禅寺をシュウゼンジと、明確に読み分けていた。
実は以前、よく行く店のママさんに「次回の今申楽はシュゼンジっていう作品をやろうと思ってるんです」と言ったら「あら、あれはシュウゼンジでしょ。勉強が足りないわね。協力欄に私の名前を載せて御招待なさい」と言われていた。以来、気にはなっていたのだが、こうして大々的に放送されてはもはや居ても立ってもおれぬ。
テレビ局に電話したら制作会社に問い合わせてくれとの事。で、制作会社に電話したら、「街の方もお寺の方もシュウゼンジと読んでましたので」と誠にうるさげな対応であった。ちゃんと取材してるんだと言いたいのだろうが、こちらは単に聞いているだけ。も少し穏やかに対応して戴きたいものである。
この対応ぶりではこの会社、けだし信用ならぬと判断し、寺に直接確認をとったところ、御丁寧に御教示を戴いた。真相はかくの如くであるらしい。
すなわち修禅寺は、弘法大師創建の昔からシュゼンジと読むが正しい。しかしこれでは地名の修善寺と読み方が同じで紛らわしいという事から、二世代ほど前から、寺名の場合はシュウゼンジと仇名的に読み慣わす方々が地元に現れてきた。俗称の事とて寺でも特にそれを戒めだてるという事はせずに、ただ出版物や放送機関が公にこの寺を呼ぶ時には固くシュゼンジで通してもらってきた。この度の取材でもそれは言ってあった筈だが、制作会社の手違いから誤って放送されてしまったものである。なお修の字は修学旅行などシュウと読むイメージが強いが、修業という言葉もあるように寺院ではシュと読む場合も少なからずである。
との事であった。

という訳でママさん、せっかくながらお名前もお載せ出来ませんし、御招待も致しかねる結果と相成りました。
恐れ入りますが、お金を払って観に来て下さいませ。ツケは御容赦。太夫敬白。

2006年01月01日

イイクニ作ろう?

朧座の次回公演『修禅寺』。
先日の打ち合わせで、共同演出の斉藤さんや音楽の奥田さんや製作の安藤さんに「1月中には第三稿を上げます」などと言ってしまった。という訳で、今、台本を書いている。
この『修禅寺』、鎌倉時代の話なので、書いているうちに鎌倉時代に詳しくなってくる。
知れば知るほど、まあ、とにかくほんとに凄まじい時代なのだった。
イイクニ繕う鎌倉幕府、なのだった。実は。
「ネタバレ」になるといけないので、あんまり詳しい事は書かないでおくが。
ちなみに前回の旗揚げ公演は平安時代の話であった。
平安時代はのどかで良かったなあ。などと思う元旦の朝。冬はつとめて。

『修禅寺』、詳細が決まりつつある。
近々お知らせ致します。

2006年01月14日

中間地点

最初は「北条政子」だった。そこから「源頼家」に行き着き、そして今また「北条政子」に帰ってきている。
構想から約1年半。書き始めて、そして最近になってようやくわかりかけてきている。
道のりは果てしなく長い。まさか、これほどまでに長いとは。

が、自分で選んだテーマである。書き続けよう。時に歩み、時に立ち止まりつつも。

朧座次回作『修禅寺』、本当の主人公は頼家でも政子でもなく、もっと別の何ものかであるのかも知れない。

2006年03月12日

発酵期間

前作『香炉峯』は、正味2〜3週間で書き上げた。
今作『修禅寺』は1年以上かかった。しかも、まだ書き終わっていない。いろいろですね。
 
今は、筆を擱いているのである。発酵期間。
頭の中で、プチプチと音を立てて何物かが発酵しているのがよくわかる。変な感覚である。
まあ、発酵食品というのはおしなべて美味ですからね。要するに乞う御期待という訳で…シュウウウ。

発酵という化学反応を、何か勘違いしていますかね。ワタクシ。

さて、発酵期間はやみくもに台詞なんかをひねり出したりせず、週刊誌でも立ち読みしながら悠長に今作のコピーを考えてみたりする。

「渡る幕府も鬼ばかり」

発酵期間、も少し続く。ネチャネチャ。

2006年06月03日

稽古初日

台本最終稿も上がり、演者・スタッフほか公演概要も決まり、チラシも無事印刷所に入稿された。
そしていよいよ、今日から稽古が始まった。

と言っても、まだ地慣らしのようなもの。本格的な稽古は7月に入ってからと思っている。今は、他の役者と今回の作品について、また演劇について、大いに語り合いながら互いの信頼を深めて行きたい。
いずれ、芸術的な大ゲンカがし合えるくらいの仲までに…

さて、本日の雑感。
私、今回初めて共演する役者もいて、ワクワクドキドキの数時間であった。
他の劇団本番に出演中で稽古に参加出来なかった役者もいる…早く皆で稽古がしたい。もう、楽しみで仕方がない。
全員の課題は、もっと台詞をスラスラ読めるようになる事。その為に、自分の知らない単語(「金吾」だの「魔事品」だの「六書八体」だの、わんさか出て来る…皆、頑張れ!)の意味を調べてきてもらうよう頼んだ。それも、自分の台詞のみならず、他人の台詞まで…だって演劇は皆で創るのだから。
作家である私が単語の意味や読み方を最初から説明してしまう事も可能は可能だ。だがそれでは学校だ。そして学校で教わる事というのは、だいたいが身にならずに終ってしまう。

今後、しばらくの間は読み稽古を丹念に続けて行きたい。

2006年06月10日

稽古2日目

チラシが完成したので稽古場で役者に手渡す。皆喜んでくれて良かった。その作品に関わることを演者に誇りに思ってもらえるような、そんなチラシが一番だ。チラシに負けないよう、しっかり稽古して行かねば。
(ところで私は、チラシよりオクバリとかオワタシというような名称の方が良いのではないかと最近思っている。ぞんざいにチラシてなんかいるから演劇は動員が伸び悩むのではないか、サラ金でさえ駅前でティッシュをオワタシしているではないか…と。だから今回のフライヤーも、なるべくならチラスのではなく、お客様一方一方に丁寧にオワタシしたいものである)

今日も読み稽古。阿部氏が絶好調だった。「この役はこんなイメージがあるのでちょっとやってみても良いですか」と言うので試してもらった事がある。こういう申し出は作演出としてとても嬉しい。
途中、ある長台詞を、一例として私が読んでみた。自分で書いた台詞なのに、何度かつまづいてしまった。恥ずかしい限りである。反省。

帰り際、役者達が、役者同士の日常会話も鎌倉時代語でやってみたらどうかと話し合っていた。鎌倉時代語は厳密には再現できない(できるものなら試してみたいが、テープがないので土台無理である)、あの台本にあるのは正確には鎌倉時代語ではないと補足しておいた。言うなれば擬鎌倉時代語である。しかしともかく、台本の話し言葉で日常会話も行うというアイディア自体は素晴らしい。演出も候文でやってみようかな。「今のとこ、ダメ出し申したく存じ候」とか。
公演後、出演者全員ハットリ君みたいになっているかも知れない。

2006年06月17日

稽古3日目

先週まで他劇団に出演されていた山本氏が、本日から稽古に合流。これで5人揃った!全員揃うと当たり前だが何かが違う、闘志がもりもりと湧いてくる。
今日は台本の前半部分をざっと読み通した。やはり古語と歴史的仮名遣いに関しては一通り説明しておく必要があると感じた。
川野氏が、今回の役を演じる事について、いろいろと思い悩んでおられる様子だ。今後、1日に1回は頼家・政子のシーンを稽古したいと言われた。同感である。

明日は演奏家3名も含め、全演者の顔合わせである。楽しみだ。

2006年06月18日

稽古4日目(顔合わせ)

今日は役者+音楽チーム+美術チーム+舞台監督+製作で顔合わせを行った。今まで個々に顔を合わせてきた今回のメンバーが、ここについに一堂に会したのである。こうして見渡してみると、改めて、心強い方々がお集まり下さったなと思う。殊に演奏家彩氏・内田氏のお二人とは、私も初対面で感無量であった。お会いしたかった!
昨日は、作・演出・出演・製作として、また朧座主宰として私が思うところを皆さんにお伝えした。今申楽はかくありたいと願うポイントを三つ、忌憚なく皆さんに聞いて戴いた。一、演劇と音楽の関係について。一、「まつり」について。一、仮面について。

相変わらずの口下手で初歩的なミスもあったが、今後に生かすより他はない。
ともあれ、今申楽 朧座『修禅寺』はようやく港に着いた。いよいよ出航である。

2006年06月24日

稽古5日目

これまで3回読み稽古を行い、その要を痛感したので、歴史的仮名遣い及び台本の古語部分の現代語訳を行った。参ラスなどのいわゆる「謙譲語」については、狂言を習っている役者でさえ理解不十分であった。たまたま学生時代に国語科の恩師に恵まれ、国文法の基礎くらいは叩き込まれている私のような者は、言葉を商売道具とする役者の世界においてさえ決して多いとは言えない。それもそのはず、国語学者の発明(?)したこの「謙譲語」なる用語からして、実は多分に事の本質を見誤った命名であるのだ。本当はへりくだってなどいないのだ、古典の「謙譲語」は…。学者からして文法を誤解している向きが多いのだ、これでどうして真っ当な知識が世に広まろう。
誰の誰に対する敬意か。考えてみれば、そこを解さずに敬語文を読む事など不可能なはずだ。恐ろしい事である。

時代劇をやる時は、古文の知識が必要である。

その後、台本の後半部分を読み通した。
頼家政子のシーン、これはもう、何度でもやってみるに如くはなさそうだ。今のところ。

2006年07月01日

稽古6日目

古語部分、皆だいぶ読めるようになってきた。あと一息というところ。

今日は稽古始まって以来、初めて全編読み通した。やはり通してみないとわからないもの、通してみて初めてわかる何ものかが確かにある!
ト書も全部私が読んだ所為か、終った後はクタクタであった…ト書も含めて1時間45分。悪くない時間である。

また今日はいくつかのゲームを行った。「その台詞、本当に言いたくなければ言わないゲーム」「台詞を全部狂言調で交してみるゲーム」「自傷行為を行う者とそれを止めに入る者、リアルにやったらどうなるか、それを型化してみるとどうなるか試すゲーム」など。発見の連続。

「その台詞、本当に言いたくなければ言わない」という条件は、本当は役者の全ての台詞に課したいところなのだ。(それが、私の究極の夢である。)

そしてやはり、最終的には何らかの型に濾して行きたいところである。

政子役としては、今日は侍女役との絡みで見えたものあり、収穫であった。そろそろ台詞を入れねば。

2006年07月02日

稽古7日目

今日辺りから皆、本当の意味でこの台本に向き合い始めてくれた。そんな気がする。

やはり頼家は万寿なのだ。今日の稽古で、改めてそう感じた。万寿を演ずるのは川野氏だが、万寿を創るのは氏と母・政子役の私である。心してかからねばならない。

「声」という役がある。この「声」に今日初めて流れが見えた。この「声」、役者に何度か無声音でやってもらった。独特の印象であった。

政子と侍女の課題は「女」だ。今申楽の女形を創る事だ。裏声を弄ぶでもなく、まして美しい小面の下から太った男の肉がはみ出ている奇観を呈するでもなく。「女」がポイントだ。

そして本日の忘れ難い達成、それは「蹴鞠シーン」に光が見え始めた事だ。
皆で、筆や太刀といった小道具はどうするのか、リアルに実物を使うのか、あるいは…といった話をしているうちに、「じゃあ、鞠はどうする」という事になった。あまり書くとネタバレとやらになるが、今回の話では鞠という小道具がかなり重要な位置を占めている。しかも、それを役者同士が蹴り合う場面があるのだ。私は、実をいえばさしたるプランもなしにこのシーンを書いた。今申楽に大劇場は似合わない。本当に舞台上で蹴鞠なんか出来るのか、仮に役者が蹴鞠の天才だったとしても、それでも鞠が客席に飛んでいってしまうリスクを拭い去る事は出来ないだろう…というような現実論は一切合切抜きにして、このシーンを書いた。台本第一稿にはこのシーンはなかった、だがやはりこのシーンは欲しいのだ。800年にも及ばんとする頼家像、蹴鞠に現を抜かした馬鹿殿様という『吾妻鑑』のイメージに疑義を呈する為には、あえてこのシーンが…。そう思って、第二稿執筆時に書き加えたのである。
皆の叡智を結集してこのシーン、なかなかのものになりそうだ。乞う御期待と申し上げておく。

やっぱり私は「型」が創りたかったのだ。しかも、訳の分らないごまかしめいた「型遊び」「型ごっこ」ではなく、正当なリアリズムに基づく「必然的な型」が。

面白くなって来た。

2006年07月04日

稽古8日目(自由参加)

頼家役の川野氏と、今回の作品についてあれこれ語った。話題は多岐に及ぶが、その中から印象的ないくつかをご紹介したい。

まず、頼家は妻子をどのくらい愛していたのか、という事。
この点について、歴史的には全く不明である。親に愛されなかった子は人の愛し方が分らず、ゆえに自分の妻や子をも愛することが出来なくなる、とものの本で読んだ事がある。おそらくその通りであろう。ただ、頼家の場合は、決して政子に愛されていなかったわけではないと私は思う。プログラムにも書いたが、この話は政子頼家母子の愛とそのすれ違いの物語なのである。察するに政子は頼家を愛していた、が、どこかで何かを間違えてしまったのだ。そしてそれは、頼家をして母の愛を疑わせるほど大きな過ちであったに違いない。頼家にしてみれば「私を愛しているのかいないのか、ハッキリして下さい」とでも言いたいところではなかったか。
ともかく私は、頼家は母の愛を全く知らずに育ったという設定でこの台本を書いたのではないのだ。
すると、頼家だって妻(若狭局)や子(一幡)をそれなりに愛していたのではないか、少なくとも愛そうとしていた、愛しかけていたのではないか、という推測も成り立とう。母の影響で、人への愛し方が相当いびつで不器用になってしまっていた可能性がある彼なりに…とすれば、その妻子を殺された頼家の怒りと哀しみはなお一層根深いものがあるのかも知れない。
やはり、今月末の鎌倉・修善寺合宿において、妙本寺(比企館跡・一族墓所)は訪ねておかなければならない場所の一つであるようだ。

それにしても、政子の母は一体どんな母だったのだろう。そして政子はその母のもとでどんなふうに育てられたのか。

そして、川野氏と談じ合った話題のうちここが最も肝要な所だが、結局我々は、政子や頼家を通じて「母と子」というものを描きたいのだ、という事。否、描くという言葉を安易に使うことにも近頃の私は一抹の躊躇を覚える。ものを描くというのは、それを見下ろす絶対者の視点があって初めて為し得る営みである。古代ギリシャの劇場が巨大なすり鉢状をしているのを思い出して戴きたい。今、我々が普通に演劇と呼んでしまっているものの本質があの形にあると私は思う。観客は神の視座から、はるか下界の人間どもの愚かさを舞台上に俯瞰するのである。ちょうど貴族達が奴隷と猛獣とを闘技場で殺し合わせるように。
翻って、日本の伝統演劇はそこが違うと私は思う。能舞台の橋掛かり、芝居小屋の花道…そこでは客席は神の席ではない。役者は客席から登場し、客席に退場し、時には客席を舞台として演ずることさえ珍しくはない。つまり、演者見者が渾然一体となって神や仏に奉るのが、わが国本来の演劇の在りようではなかったか。頼家政子を依り代として、演者見者が一対の巨大な「母と子」と化する時、何かしら生まれるものがあるのではないか…。

「描写」「鑑賞」よりも「一体化」に今の私は関心があるのである。

と、そこまで話が及んだとき川野氏は、それを我々が為すに当って必要なのは「型」ではなく「術」ではないか、と発言された。今我々は「型」というより「術」とでも呼ぶべきものを模索すべきではないかと言われるのだ。「型」、それは正解のある、訓練すれば模倣可能なもの。「術」、それは正解のない、その役者以外の誰にも真似の出来ないもの。

なるほど。「型」ではなく、「術」、か。

2006年07月06日

稽古9日目(劇場下見)

今日は役者5名+舞台監督村信氏、装置渡辺氏、装束福原氏というメンバーで劇場下見を行った。

8月、ここでやるのだ…。2時間近く居座って、固く心に決めた事がある。

やっぱり「橋」を作る。何が何でも作る。そもそも台本のト書にあるのだ、「板敷の素舞台 それに向かって長々と橋が掛け渡してある」と。
客席の通路を塞いでしまうので無理かと半分諦めていたが、渡辺氏は言って下さった。橋は開演直前、即興で設えられると。

消防法に触れるというなら、いっそ椅子席を一部取り払って座布団に変えても良い。
…考えてもみれば、それもなかなか乙ではないか?

万寿がやってきた道。そして、万寿が帰って行く道。
そんな「橋」が、この物語には必要なのだ。

2006年07月08日

稽古10日目

今日から立ち稽古。が、その前にもう一度、台本を最初から最後まで読み通しておこうと思った。
出来は…まだまだである。テンポが悪い。これはもう、相互に醸し出してしまったまずさである。

悔やんでいても始まらない。いよいよ立ち稽古に入る。

ここで、川野氏にお願いをしたことがある。
頼家の生身の声ではなく、頼家の霊の声を聞かせて戴きたいと注文したのである。

夜は役者全員で、さる能楽師による能の講座を受けに行った。
ここだけの話、私は出かける前に、役者全員に言っておいた。

「騙されないように、疑いの心を忘れずに。それでもヒントになるような事は何かしらあると思います」

2006年07月09日

稽古11日目

午前中、装束担当福原氏に前回公演『香炉峯』の装束をお見せする。その時、氏から舞台衣裳について大変貴重な教示を得た。そもそも氏は衣裳に「思い」を込めすぎぬようにしておられるという。役者にとって水の如く空気の如くゼロなるもの、それが氏の心がける衣裳であるという。
翻って、「小野小町」とか「六条御息所」とか、そういう個人格を象る能面は存在しない(正確には存在するが、極めて例外的である)。可憐な乙女なら小面、嫉妬に狂った鬼女には般若…といった具合に、いわゆる「つぶしのきく」、汎用性ある面がほとんどである。
その事と氏の教唆とには、どこかしら通底するものがあるやに思われるのである。

思うに、面にせよ装束にせよ、そこに「思い」を込めるのは最終的には役者の仕事に他ならぬという事であろう。この話、体調不良のため残念ながら本日不参加の山戸氏(美術監督・面)を交えて、改めて論じ合いたいと思う。

さて福原氏は、前回公演の装束のうち、特に「里の女」(清少納言の化身姿)に手がかりを得られたらしい。

13時、稽古開始。最初の2時間ほど、「声」チーム(阿部氏・JERSEY氏)と「女」チーム(私・山本氏)に分かれて、自由に時を過す。こういう時間、非常に有意義ですね。

川野氏が来てからは、頼家シーンを重点的に稽古した。幽体離脱に狂乱に母との死闘である。氏は相当疲れたと思う。1日1ステージが限界ではなかろうかと、らしからぬ弱音を呈しておられた。
しかし、見えてきたものがあるとも言っておられた。

それにしても、立ち稽古に入ってからは殊更発見の連続で面白い。
当初の予定にはなかったが、政子が太刀を振り回すシーンまで出てきた。女にとっては相当重たい筈だ。気を付けねば。
また、今日であったか昨日であったか、山本氏が非常に印象的な事を呟かれた。
今回の稽古場、なぜか巨大なトトロの張りぼてが隅っこに置かれているのだが、氏曰く、この芝居を観てからあのトトロを見ると実に心が癒されるというのである。
なんでもない一言のようだが、この一言が数時間後、私に徹底的な示唆を与えてくれた。
これも当初の台本には書かれていない、この物語の最後のシーンが浮かんできたのである。

それはともかく、役者としての私の課題、それは政子である。母である。
己の腹を痛めた赤子のあやし方というものが正直まだよくわからない。
悩み始めた。子宮が欲しい今日この頃。

しかし共演者各位の演出補的協力によって、出演演出二足の草鞋ながら大分救われている。心から感謝している。

2006年07月13日

稽古12日目

昼間、音楽担当・奥田氏のご好意で、氏が関わっておられる舞台公演の当日パンフレットに当方のプログラムを折り込ませて戴く。一枚一枚、思いを込めて折り込ませて戴きました。
さて、夜からの稽古、まずは終盤の殺陣を仮で作ってみた。本日は川野氏がお休みなので、山本氏に頼家の代役をお願いする。殺陣のある芝居を作演出するのは今回が初めてである。とても楽しい。山本氏は殺陣師でもあり、自身で道場を主宰しておられるだけあって、「原則太刀で勝負してくれ」「ここだけは蹴りを入れてくれ」「ここらで政子を押しのけてくれ」「最後はこういう絵になってくれ」「そして瞬く間に消え失せてくれ」…などなどこちらが希望を言うと迅速かつ的確に案を出して下さる。氏が言うには、そういう希望を出してもらった方が殺陣師としてはやりやすい、困るのは「一切お任せ」タイプなのだとか。なるほど、そんな人もいるんだ。信じられないけど。
次に「声」の稽古。と言っても今日はエチュード的な内容に徹した。「声」を演ずる阿部・JERSEY両氏それぞれ、山本氏に罵詈雑言を吐きながら太刀を浴びせかけて行ってもらう。目標は「山本氏を傷付ける」事。二人とも根が良過ぎるせいか(?)かなり悪戦苦闘。悪役を研究してもらうように頼んだ。例として、角川映画『里見八犬伝』(深作欣二監督)を観るようにとも伝えた。夏木マリ・目黒祐樹両氏の悪党ぶり、直接参考になるかどうかは分らないが、まあ観ておいて損はないだろう。
二人の役作りに、期待するところ大だ。
次に「女」の稽古。政子がいかに助けを求め、侍女がいかに駆け寄って乱心の御所様を介抱するか、ひたすら研究あるのみである。そう、政子や侍女を演ずる我々(私と山本氏)は男である。今申楽版女形をつくらねばならないのだ。本物の女性であるJERSEY氏に、「女」考証を願った。いろいろと教えられる。中にはちょっと愕然とするような発見も…そうか、それで男は女々しく女は潔く、などと言われるのか。納得。
途中、台詞を間違えてしまい申し訳ありません。

皆それぞれに克服すべき課題がある。私もここ最近、政子を演ずる難しさをとみに痛感している。
つい最近も『毒になる親 一生苦しむ子供』(スーザン・フォワード著 講談社)なる本を見かけてついつい買ってしまったが…こういう書物も確かに参考にはなるが、やはり今となっては世の母親たちを観察するに如くはなさそうだ。

お母様方、勉強させて戴きます。

2006年07月15日

稽古13日目

「声」という役がある。この「声」から、人間臭を消し去りたいという思いがある。
それでいて、その役者本来の人間的魅力を損なうような事も決して本意ではない。そこが難しい。

女形。日本舞踊に学ぶところが大きそうだ。基本的な立ち方、座り方、歩き方…斜に、半身に!川野氏の御教示によれば、日舞には男が女を演じるための全ての所作が含まれているという。恐るべし。

頼家政子シーン。思うところあり、今日の政子はとことん悪魔のような鬼母で演じてみた。あとで川野氏に「3回ほど斬りたくなった」といわれた。今までの政子の台詞は正論だけに抗えない部分があったが、それが今回はなかったと。だからさほどの葛藤もなく、いつもに比べれば頼家は楽そうだった──私にはそう見受けられた。
つまりは逆効果だったのだろうと思う。私は本当は頼家を苦しめねばならないのに…。
観ていた他の役者からも「おい政子、それはないだろ」的な感想が上がっていた。
そりゃそうだろうなと演ってる私自身も思った。

母は難しい。

家臣甲乙(JERSEY氏・阿部氏)のシーンが良くなってきている。量自体は少ないが、頼家の孤独を描く為に欠くべからざるシーンである。

赤子の抱き方。これも川野氏に御教示を戴いた。氏は三年前に一児の父となられただけあってとても詳しい。右手は首に要注意、左手は体を締めすぎて窒息させぬよう…

母は大変である。

物語終盤の殺陣シーン。失われた頼家の表情がここで回復する事に。台詞も追加することに…
私の中でかねて思い浮かべていた台詞と、川野氏の口から飛び出してきた台詞が完全に一致していて嬉しかった。
ああ、このシーンに向けて全ての怒りも哀しみも収斂されて行くと良いのだが。

2006年07月16日

稽古14日目

今日は頼家+声、政子+侍女の2組に分かれて、少し自主練の時間を設けた。
「声」は人間離れを意識するあまり、役者の人間性が死んでしまっては駄目である。発声法など、役者は工夫し始めたようだ。それにしても、ただでさえ複数の人格を有しそれらが複雑に入り乱れるという困難な役どころである上に、それをしかも役者二人で演じるのだ。ゆえになおさらの事、この「声」は難しい。最初から役者に全て委ねるというのではなく、少なくとも今の段階では、ある程度こちらから分担指定が必要かも知れない。
最後はマイクを使ってやってみた。当り前だがやはり全然違って聞こえる。

政子・侍女。対話に難しいものを感じる。侍女にはイン、政子にはアウトが必要だ。
稽古の途中、本公演企画書の最後に私がしたためた文章を読んでみた。
「そして《日本》人は、既に亡くなってしまった過去の人物に対して、
『ハッキリ言葉には出さなかったけれど、いや出せなかったけれど、本当はこんな思いを抱えていたんだろうな。あの人は』
と、故人の思いを想像してその魂を慰める優しさを持っている。
勝者が正義、敗者が悪とは限らない。
死んでしまえばそれまでのこと、ではないのだ。
死んだ後も、人の一生は続くのだ。その人を偲ぶ後世の人間によって。
そんなかつての死者たちに、生前口には出せなかった胸の内を語ってもらう。
そんな演劇が、無言の国《日本》には、存在する。
今日、能楽という名の下に、その片鱗は伝えられている。
仮面を着けた俳優に死者の霊が招かれて、在りし日の真情を観客たちに吐露するという方法だ。」

やはり我々は、帰するところここに辿り着かなくてはならない。
だから、普段の「演劇」で我々が普通に使っている手が、ここ今申楽では往々にして通用しないのである。
それは、私自身の演技についても痛感した。政子の読経シーンで、私はつい「感情」を表現してしまう。そんなもの、きっと観客は眉をしかめるだろう。

政子のシーンであるが、当初、連続的に演じる予定だった2シーンを、やはり1度政子も退場させて仕切り直す方向で考える事にした。それだけ、前のシーンが強すぎるのだ。
その間を、侍女の日常的光景で繋ぎたい。掃除か?給仕か?この話に出てくる侍女は政子のお付であり、将軍の伝言を取り次ぐなどかなり高位の侍女であるので、ひとまず給仕でもさせてみるかという事になった。その方が、次の芝居にも繋がりやすい(政子が侍女の頼家毒殺未遂を疑い出す)。

とにかく政子はどんどん惨めになってきている。息子の見ていないところで、床に飛び散った彼の血を拭くしかないのだ。

2006年07月17日

頼家祭り

午前2時。昨夜稽古が終わったばかりではあるが、「朝の修善寺が見たい」という装束担当・福原氏の車に製作補・鼓之丞ともども乗り込み、一路伊豆修善寺へ。と言っても道中の記憶は皆無。「ごめんなさい、寝ます!」と叫んで寝て、気がついたら修善寺のコンビニだった。時計を見れば4時ジャスト。コンビニ到着後、なお30分ほど眠りこけていたというので、つまりは片道1時間半で来たことになる。舞台衣裳家は同時に偉大なる「走り屋さん」でもあったようだ…。

さて、ここ修善寺を訪ねるのはこれで幾度目になるだろう。前から行ってみたいスポットがあったので福原氏にお願いする。きっとそこからの眺めはいい筈だ。その名は達磨山高原。富士山と駿河湾とを一望のもとに見渡せることで有名である。案の定、すばらしい日の出を拝む事が出来た…福原氏も本懐叶った模様であった。次に、桂谷にある修禅寺奥の院へ。ここが、本作『修禅寺』のクライマックスの舞台となる。劇中、頼家と政子がこの辺りの山林から富士を眺めるシーンがある…しかし実際にはこの辺りから富士は見えない。桂谷の名の通り、この一帯は谷間であって、富士を拝したければ先の高原方面に向かって達磨山を上らねばならないのだ。
要するにこの物語はフィクションなのである。当たり前だが。

さて、明日の祥月命日を前に、本日この町で行われる頼家祭り。例年行われているそうだが、私は今回が初めてである。が、その前にまだ時間があるので、韮山方面に足を伸ばして願成就院という寺に詣でた。ここには政子の父、北条時政の墓がある。頼家の祭りの日に、併せてその仇敵の墓参りも済ませるとはいささかバツの悪い話だが、とにかくここ願成就院は車の旅でもないとなかなか来る機会がない。以前にも一度来かけたのだが、時間切れで終わってしまっていた。今日こそはと時政の墓前に祈ったものである。
「今回、完全に悪者扱いですがどうぞ御容赦を!!」
この他にもう一つ、見たいものがこの寺にはあった。政子の七回忌に甥の泰時が奉納した地蔵菩薩座像(重要美術品)である。世にはこの地蔵に政子の面影を見る人もあるらしく、見かけたあるサイトによれば通称政子地蔵菩薩とも呼ばれているのだとか(真偽の程は未確認)。
ただ私の見るところ、一般の地蔵像に比べて心なしか顔の作りがリアルな気がする。鎌倉期の作風を差し引いてみても、なお一抹引っかかるものがないではない。泰時は仏師に命じて亡き伯母の顔を模させたのであろうか。

さて、韮山から修善寺に戻って川野氏ご一家と合流。
頼家忌。現在、頼家の墓は修禅寺境内にはなく、修善寺町の管轄になっている。そこで町の依頼を受けた修禅寺のお坊様方が、頼家とその家臣達の墓前で読経供養するという形が取られているが…やはりどこか寂しいものがある。祭りの風情ではなく、在り方がである。有体に言って、非常に不徹底なものを感じる。何度もこの地を訪ねてきた私にはある程度予想がついていたが、川野氏には相当ショックだったようだ。この悔しさ、作品創りに生かそうではないか…。

修禅寺宝物館にて、「頼家の面」を福原氏とともに観る。この面とも、かれこれ深い付き合いとなる。
氏はこの面について、独自の感想を述べられた。
「頼家よりもっと前の時代の作ではないか」「頼家とは無関係ではないか」「もし関係があるとすれば、頼家をまどわした悪魔の面ではないか」「悪魔の面であるがゆえに、頼家政子の愛の力で真っ二つに割れてしまったのではないか」「もし頼家の面ならば政子が放っておく筈がない、必ず人目に触れぬよう計らった筈」
私は氏の感想に心打たれるものがあった。その場では反論できぬ何かがあった。

ともかく、世の中にはいろんな人間がいるのである。この伝承不明の一枚の古面が、かつて岡本綺堂をして『修禅寺物語』を書かせ、今また私をして『修禅寺』を書かせた。そういう力を持った面である事は疑いない。と、ひとまずそんな結論に達して宝物館を後にしたのだったが。

しかし、家に帰ってよくよく考えるに。

母親には悪魔のように見えるかも知れない。
でも、あれはやっぱり「頼家の面」なのではないか…。

2006年07月20日

稽古15日目

まず、殺陣の稽古。このシーンの稽古は、もちろん役者の安全面を考えても繰り返し行っておくべきであるが、この作品全体の演出を考える上においても非常に示唆的なものを含んでいる。ゆえに今後も毎日行いたい。

頼家と声の「洞窟」シーン。このシーンには前後2場があるが、今日は初めて後半の方を立ち稽古した。
頼家が元気過ぎると注文した。頼家の症状を考えるための一つの手がかりとして、「老い」という言葉も口にした。とにかく頼家は弱りきり疲れきっている筈だ。元気には見えない筈だ。

政子・侍女のシーン。このシーンがなぜうまく行かないか。今日は稽古を延長して、そこを皆で語り合った。そこで判ったことがある。

「演劇とは何か」という事を、突き詰めて考えねばこの公演の幕は開かない。

この当たり前の一事に気付くのに、2週間分の稽古日、期間にして1か月半を要した。
大なる収穫だったと言うべきであろう。
そして、あと1か月が残されている。あと1か月で、4千円の舞台を創らねばならない。

人間、存外変われるものだ。

2006年07月22日

稽古16日目

やるべき事は先日の稽古であらかた見えた。
何のことはない、要するにきちんと演劇を創るという事である。

今日は主に物語後半、まだ立ち稽古をつけていない場面をやった。
徐々にではあるが、光はうっすら見えてきている。進みたいと思う。

嘘はいけない。だから役者は台本に書かれていない部分を創らないといけない。
台本に書かれている事だけをやるのは、嘘だ。
嘘を真にしなければならない。

その役で生きて欲しい。その役を生きて欲しい。
その台詞が生きているかどうか。嘘つきな台詞は死んでしまっている…自戒を込めて。

夜、稽古終了後は福原氏と装束打ち合わせ。氏は稽古場に将軍御台所のイメージを持って来られた。
こちらも光が見えてきた。

2006年07月23日

稽古17日目

もう、朧太夫とやらになぞ任せては居れぬ。これからはこのわらはが筆を執る事と致す。
今日はまづ、役者皆で申楽(今は能楽とかいふのかえ)を観て参つた。曲は『鉄輪』と申した。夫に捨てられ悋気のあまり鬼と化したる女の話。よもや太夫とやらめ、この女を役作りの手本に致す所存ではあるまいの。

観終はつて稽古場に向かふ途中、阿部丈がかやうな事を言つて居られた。曰くこのところ酒の量も増え、いささか「気もたれ」が致して居る由。太夫答へて曰く、「そは正しき心の反応なるべし。世には言霊といふものありて、日頃悪しき言葉を使ひ居れば自づから心も悪しうなり行く道理なり。この本には醜き言ひざま多し、くれぐれも健康には留意せられたし」
さやうな本を書いたのは誰ぢや。さも他人事のやうな顔をしくさつて。

さて、稽古場に着いてからは、殺陣、頼家・声、政子・侍女の稽古を致した。
さう、今日から太夫と山本丈の両名、稽古中はかたみに役名で呼びあふ事にしたのぢや。

御花、久しいなう。

皆の努力の甲斐あつて、来月頭には通し稽古に入る由。
今週末には皆で鎌倉と修禅寺に参るとやら。

良いのぢや良いのぢや、何でも良いのぢや、あの子が成仏さへしてくれれば…

2006年07月27日

稽古18日目

今日は久方ぶりに、川野丈と二人きり。
髪型、血、太刀、鞠などなど、気になつて居る事どもを細かに洗ひ出して居つた。
ちなみに太夫は「走馬灯」をよく知らず、丈に教示を蒙つて居つた。(こたびの申楽で走馬灯を使ふ案があるさうな)

彼らは殺陣をただのチャンバラにはしたくないと言ふ。太刀と太刀とが斬り結ぶ時、そこにえもいはれぬ妙音の漂ふやうな、さやうな美しいものが創りたい。我ら二人が観てもつひぞ幻滅せぬやうな、本物以上の本物が創りたいと。

ほほほ。さてさて、お手並拝見と参らうか。

と、その時ぢや。丈が太夫にかやうな事を言ひ出したのは。
「最後、僕と太夫で、この親子に舞をプレゼントしませんか」

な、何ぢやと?

2006年07月29日

稽古19日目(合宿初日)

今日明日は合宿なる由にて、辰の半刻頃、役者五名鎌倉駅にうち揃ひまづは鶴岡に詣でた。公演成功を念じ、絵馬に五名連署して奉納す。
その後、大倉御所址、佐殿の墓、段葛、由比ガ浜、妙本寺、寿福寺と見て回つた。
佐殿の墓に詣でて、彼らはやうやく笹竜胆が源氏の家紋と悟つたやうぢや。太夫、勉強が足らぬて。それも見て歩きの妙味なぞと他の衆にごまかして居つたが…嘆かはしや。
段葛。二ノ鳥居から先はいづこに消えたのぢや…跡形も無く、言葉も無し。
太夫、わらははなう。この道を歩いたぞ。あの子と共に、歩いたぞ。
おぬしに、あの子を負うてこの道が歩けるかえ。

歩いてもらはねば、困るのぢや。
よしなにの。よしなに、よしなに、よしなにの。

由比ガ浜に着く。若い衆がなう、楽しげに遊んで居るのぢや。
あの子も将軍の家になぞ生まれなんだら、なう。

それにしても、川野丈。おことは心なしかあの子に似て参つたなう。

2006年07月30日

稽古20日目(合宿2日目)

役者らの泊まつた川崎屋敷は、こたびの舞台の匠・渡辺殿の仕事場兼邸宅なる由。役者といひ裏方といひ、まこと太夫は心強き仲間を得たものぢや。