インタビュー

対談 修禅寺開創千二百年祭 勧進今申楽『修禅寺』に向けて

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田中徳潤老師(福地山 修禅寺住職)・朧太夫(今申楽 朧座主宰)

Ⅰ 修禅寺開創千二百年

住職 寺の何年祭という大きな節目には、大修理をするんですよね。
太夫 そうなんですか。
住職 ええ。東本願寺もそうだったしね。奈良の東大寺も。
太夫 もう、仏像の方は全部終わったんですか?
住職 ええ、仏像はもう全部終わりました。で、今のところ、建物は、まだ、石倉があるんですがね。
太夫 石倉?
住職 ええ、石の倉が。それを一時、脇へ寄して建ってますけどね。そこは定位置じゃないもんですから、使いにくい。それを動かすのと、それから、本来ならばもう出来上がってるんですけども、奥之院の護摩堂ですね。
太夫 はい。
住職 で、これは材料の寄付もあったもんですから、それも立ち木のままなんです。乾かさなきゃならない。どうせ年内に間に合わなければ、むしろ、将来に残るようなものにしておこうじゃないか、ということになりましてね。奥之院の護摩堂は残ってるんです。
太夫 本来の予定ですと…。
住職 もう出来てる予定だった。
太夫 ああ、そうだったんですか。奥之院は、正確には正覚院というふうに言うんですか?
住職 寺の名前ですか?
太夫 ええ。
住職 始まりの名前はわかってないですね。
太夫 ああ、そうなんですか。
住職 ええ。で、正覚院というのは、弘法大師が名前をお付けになったと思うんですね。その前にあった古い寺というのは、名前も宗旨もわからない。
太夫 桂谷山寺の通称呼ばれているところですよね。
住職 ええ、桂谷の山寺となっている。
太夫 あそこ、今行くと、阿吽の滝があって、そこに礎石の跡が…。
住職 あれは、後の護摩堂の。その当時は護摩堂なんてなかったからですからね。
太夫 ああ、後に建てられた護摩堂のあとなんですね。
住職 ずっとのちに。曹洞宗になってからですからね、護摩堂が出来たのは。
太夫 なるほど。本来、もう既に出来ていた予定の奥の院の建物というのは、あの辺にまた再建されるご予定だったんですか。それとも今建物がたっているところがありますけど、そちらの方に?
住職 それすら、はっきりはしてないですね。
太夫 あそこで、今は12月に星祭というお祭りをやられていらっしゃるんですか。
住職 そうですね。でも、星祭ってのは本当は旧正月にやるものなんですね。節分の。前にはやっていなかったんですけれどね。護持会という御檀家さんの作ってる団体が、他に仕事がないもんですから、護持会主催の豆まきをやろうと。そうすると、日が一緒になっちまうわけです。それで仕方がないから、年内に、先に12月に済ましておこうと。12月の星祭ってのは本当じゃない。暦が変わってからやるべきなんですね。暦も、昔は旧暦だったんですが、今は新暦になっちゃってますからね、早まっちゃってます。
太夫 やはり、奥之院の再建は、ずっと長いこと、お寺の方々にとっても地元の方々にとっても、大切な願いだったんでしょうか。
住職 そうですね。温泉場の人たちは、私が若い頃、ここで修行した頃はね、正式な場合には修禅寺という寺名を出しますけども、普段は「弘法さん」で通ってたんですね。ですから、全く不自由なかったんですがね。それがだんだん、寺の名前を言うようになりまして、そうするとね、町の名前と発音が同じなもんですから、寺の方を「しゅうぜんじ」というようになりましてね…。私は住職として入ったのは平成3年ですが、この「しゅうぜんじ」というのが気になってね。まず、これからやっていかなきゃいけないと。
太夫 そうだったんですか。(笑い)でも、それはそうですよね。僕が今回の台本を書きました際にも、『修禅寺』っていう台本を書いたって友達に話しましたら、「え、しゅうぜんじじゃないの?」って言うんですよ。「いや、しゅぜんじだと思うけど」って言ったら、「いや、しゅうぜんじだと思うよ」って言って、譲らないんですよ、その友達も。すっかり「しゅうぜんじ」だと思い込んでましたね。
住職 修禅寺っていうのは略名でね。正式に言うと、山号から言うと、「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」。それが正式な名前。
太夫 これはどういった意味合いがあるんでしょうか。
住職 「ふくちざん」というのはね、どこから出てきたかと言うとよくわからないんです。他のお寺でも大概、山号というのは土地の名から取るんですね。昨日もね、前に観光協会の理事長をしておったのが、寺の役員でもあるもんで、(寺に)来られましてね。その人はここの土地の人なもんですから、「(福地山という山号は)どこから出たんでしょうか」と質問したけど、わからないんですよね。ただ、奥の院の土地を、私が古い地図を見たときに、「ふくろぢ」と書いてあったんですね。ですからその「ふくろぢ」から「ふくち」が出てきたのかなと思っておったんです。で、それを確かめるために聞いてみたけど、その人も「ふくろぢ」というのは知らなかったんですね。ですから、「調べてみます」ということなんですが…。大概、土地の名前をもじったりして山号が出来るんです。
太夫 そうすると、その「ふくろぢ」である可能性もあるんですね。
住職 そうですね。で、「修禅」というのは、座禅というのは禅宗が出来てから始まったものじゃなくてお釈迦様の時代からあったわけですから、禅を修するということは仏教修行の一番根本でありますから、どこでも使う。「萬安」なんですが、読む場合には「ばんなん」と読ましていますね。よろづの事に安泰であるという、そういう禅の寺であるという名ですね。「修禅」というのは、特に、弘法大師が奥之院のあそこでもって座禅修行をなさった。あの岩のところでね。ですからこの「修禅」は弘法大師を指していると思います。
太夫 ああ、なるほど。いよいよやっぱり弘法大師のお寺なんですね。
住職 そうです。弘法大師が開いた寺ということになってますけれども、創立は、弘法大師がここへ来られた時にもうお寺があって、そこへ入られたわけです。桂谷の山寺。で、そのときにはまだ弘法大師は真言宗を修めてないんですよね。
太夫 まだ修行中…。
住職 ええ、そう。いわゆる真言宗の修行じゃなくて。その時にはまだ真言宗は入ってなかったわけですからね。仏教は入ってましたが、法相宗だとか華厳宗だとか。
太夫 奈良の仏教ですね。
住職 弘法大師が唐へ渡るときに、海は遣唐船で乗してもらえますからロハなんですが、向こうに行ってからの生活は全部自費なんですよね。こっちから渡った僧侶ってのはみんなそうなんです。ですから、砂金を持っていかないと生活が出来ない。弘法大師が唐へ渡る7年間前は、弘法大師の伝記の中でブランクになってる。ですからその7年間は日本中を歩いて砂金を探して採集していたということなんですね。もうその当時、すでに行ってきた最澄なんてのがいますから、向こうの様子は随分聞けるわけなんですけれども、真言宗を何するというと10年はかかるだろうと見当をつけたんですね。ですから10年分の砂金を集めないといけない。
ということがね、いわゆる正式な伝記としては残ってないけれども、東寺に残ってる弘法大師の手記とみなされるものがあるわけなんです。
太夫 京都の。
住職 はい。あそこが弘法大師が開いた一番最初の寺ですね。だから弘法大師の古いものが東寺に残ってる。その手記の中に「桂谷の山寺」というのが確かに出てくる。
で、ここも、すぐ近くに大仁というところがありますが、戦前まではあそこで金を掘ってた。それと土肥の金山、これはもう古い。そんなわけで、金の採集に来られたということなんですね。布教のために来たんじゃない。
でもね、この山を気に入ったらしいですね。ですから唐から帰ってきて、いわゆる根本道場、結局は高野山になったんですが、ここも候補地の1つだった。ただ、その手記の中に、「女谷(めだに)が1箇所ある」ことが書かれている。それで、(根本道場の候補地からは外し)高弟の杲隣というのを差し向けて、(修禅寺を)開かした。ところが、今でもそうなんですけど、寺を新しく建てたときに、いわゆる開山式をやるわけなんですけど、その式の導師として必ずお師匠さんを呼ぶわけなんです。だから、自分は、建てた本人は、2代目になる。それがしきたり、今でもそうなんです。ですから当然、開山は弘法大師になるわけなんですね。
それで、(今の奥之院から現在地である)こっちに持ってきたのは何代か、その記録がないんです。最初は、奥之院に草庵があったわけでしょう。それを建て直して正覚院が出来た。で、いつの時代か何代目かに現在地へ持ってきたけれども、それもやはり真言の時代だったということは、掘り出してきた密具でわかったんです。あれは、ここへ寺を建てたときに地祭りに使った法具。新しく建てたのがいつであるかが不明なんです。密具は800年以上過ぎているということは鑑定でわかっているんですがね、それがいつだかがわからない。
その後ですね、真言宗が430年ばかりあって。ここばっかりじゃなくて、日本国中、当時あった寺が大概1度は真言宗になってる。というのはね、弘法大師のお弟子が物凄くたくさん出たんです。それが全国へ散らばって、そして空いてるところへみんな入るもんですから、それが真言宗になる。が、やっぱり400年ぐらい経ちますとね、寂れてくるんですね。どうもそういう性格があるんですね、日本仏教には。で、また新興宗教が鎌倉時代に成った。それで鎌倉時代に臨済宗に。臨済から比べると曹洞の方がちょっと遅れがありますね。で、約300年後に曹洞宗になって今に至ってるということですね。
その後、寺から出火して、丸焼けになったりしましてね、もう古いものは何も残ってないんです。まあ、よく仏像は残ったと思う。

Ⅱ 北条政子のこと

太夫 その仏像(本尊大日如来坐像)なんですけれども、あれは北条政子が頼家の7回忌に納めたものなんでしょうか、やはり。それとも、それは推測の域とした方が無難なのか。
住職 解体した時にね、仏師が、初めての解体だということで、それ(政子の奉納)には間違いがないようです。けれども、言い伝えとして、北条政子の寄付だということは、もう伝わっておったですね。私の若い頃もそうだった。で、解体したところが、作者が実慶であること、それから承元4年に出来たということ。承元4年というのは頼家の7回忌なんですね。ちょうど7回忌に相当するように作らしたんですね。それで、(胎内に収められていた髪の)毛も、伊豆山神社にある北条政子の髪の毛で編んだ(曼荼羅の)あれとまったく同質であると。そんなことから、寺としては、北条政子の髪の毛に違いない。で、寄進したのも、それが入っていた仏様ですから、間違いない。
と、寺の方では踏んでるんですけど、仏像が出来た承元4年というのが、政子が髪の毛を下ろした時よりも辻殿が髪の毛を下ろした方が近いんですよ。ただそれだけで、辻殿の毛ではないかって文化庁の方では踏んでるわけなんです。これは比べるものがなにもないんです。ただ年数の違いで言ってるんですが、女の人が髪の毛を下ろしてね、その髪の毛を捨ててしまうとか絶対ないんです。とっておいて、亡くなったときに一緒に葬る。
太夫 その女性が亡くなった時に。
住職 そうそう、そのとっておいた髪の毛を入れたに違いない。ちょうど7年目ですからね、仏像が出来たのが。それと、もう一つ、辻殿というのは実際には鎌倉へ足を踏み込んだこともないらしい。
太夫 ああ、もう、名目上の奥さんだったと。
住職 (笑い)名目。京都のお公家さんのお嬢さん。
太夫 みたいですね。鎌倉に行ったこともない…?
住職 行ったこともない、おそらく。記録がない。で、政子はここへ何度も運んでますけどもね、辻殿はここへ1回も来たことはない。記録もない。ですからね、辻殿の毛を入れるはずがない。
太夫 なるほど。そうするとやはり政子さんの…。
住職 辻殿だったらね、仏像をここへは置いていきませんよ。(頼家の)菩提寺は京都の建仁寺ですから。ただ、ここはここで殺されたというだけの。辻殿の毛だったら建仁寺へ奉納しますよ。
それで、彫った実慶ね。実慶は西の方では仕事してない。鎌倉が中心。この辺ですよ。この辺でもう一体出た。ここがわかって間もなくね、函南に一体あることがわかった。実慶の作。こっち(関東)の仏師なんです。
太夫 そうすると、ご本尊は政子が頼家の菩提のために実慶に造らせた。
住職 間違いないですね。それと、宝物館に吊ってあります三尊仏の軸ですね。あれの表装も頼家の衣裳を使っている。打掛やなんかの羽織るものでしょうね、模様からして。政子さんでしたから、そんな衣裳も持ってたんでしょうね。
太夫 そうですね。ただ、北条氏の天下になりましたから、いくら我が子といえども、あまりおおっぴらには弔うことが難しかったんですかね。
住職 その辺ですね。
頼朝の旗揚げ。三島神社にお参りして、そして小田原の方へ。石橋山でこっぴどくやられて房州へわたって、房州からずっと関東の大名に頭下げて回って、そして、富士川の戦いへ。その連中、大名連中から睨まれたんですね、頼家は。
太夫 なるほど。旗揚げ時の重臣。
住職 そうそう。あんなに力を貸してるのに…。
太夫 頼朝の時は黙っていたけれども、頼家の時代になって牙を剥いてきたという。
住職 まあ、そうなんでしょうね。ですから、政子としては苦しい立場にあったでしょうね。
太夫 板ばさみになりながら、難しい政治状況の中で、それでも頼家の菩提を弔おうとして、ひっそりお弔いをしたというイメージが僕はあるんですけども。政治犯という立場ですから、大々的にはお弔いできないんだけども、やっぱり弔わなくちゃいけないという気持ちで。
住職 そうなんですね。
太夫 ですから、公的な記録の方にはそういうことが出て来ないという。しかし、やっぱり偏えに政子の(頼家)菩提を弔うということなんですね。ご本尊の由来にしても。
住職 だと思いますよ。これは残念な話なんですけども、放光般若経ですね、あれを奉納して、保存する建物が指月殿。が、その中の一部を残して、その時の和尚が…。なんで徳川家康に寄付しちゃう?徳川家康は曹洞宗のためには力を貸したですよね。可睡なんかもその1つ。お城付の僧侶だったんですね。
太夫 家康は曹洞宗にもよくしてくれた、その義理があって家康に送っちゃったんでしょうか。放光般若経を。
住職 どういう経緯で送ったのかねえ。
太夫 今はもう1本しか残ってないんですか。巻23の1巻しか残ってないですか。政子さんの署名入りのは。
住職 ええ、1巻しか残ってない。
太夫 奇跡的ですよね。
住職 ねえ。家康も来てることは来てるんですけどもね、家康が何して行ったってものは何もないですね。逆に持ってった方で。
太夫 増上寺に残ってないんですかね。少しぐらい。
住職 いや残ってますよ。全部残ってる。で、(指月殿が)空っぽになったもんで、仏像を置くようになったんですね。
それから、陣旗。北条政子が何したんですかねえ。
太夫 形見の品で寄付したのかも知れないですね。
住職 こっちへ陣旗を持ってきておくはずがないですよ。用はないですからね。(政子が)形見の品として納めたんでしょうね。その辺のあれがね、昔、書付があっただろうと思うんですがね。文久3年の大火で、全く…。仏像を出すのがやっとだったんでしょうね。

Ⅲ 奥之院の夢

太夫 今、御前様が、1200年目に当って、地元の方や、これからの日本の若い人にお話しになりたいことはございますか。
住職 うん。この寺の住職ってのはね、だいぶ難しいんですよね(笑い)。曹洞宗でありながら真言宗というか、真言宗そのものじゃなくて、弘法大師を大事にしていかなきゃならない。それでないと、土地の人とも合わない。その弘法大師のゆかりの奥之院。あそこはね、大変景色の良いところなんですよね。
太夫 素晴らしいところですね。
住職 歩いても飽きない、良い散歩道でもあるわけです。ですからね、奥之院へ、参拝客を多く招きたいと。それがもとで、一つには護摩堂を。これは今、寺院建築をやっている宮大工がね、日本のどこへ行っても見られないような護摩堂を…というのは、修禅寺護摩というのが東寺の弘法大師の手記の中に出てくる。それは、どこが修禅寺護摩かっていうと、護摩を焚く道具がなにもないもんですから、釜になるところは鍋を吊るして、股木を立てて棒を通して、そこへ鍋を吊って、それが炉だという説明があるんですね。ですから建物の中でやるんじゃなくて外でやる。それを、今度作る護摩堂に持ち込もうじゃないかということで。それでね、あそこから石がたくさん出たんですよね。こないだの、2、3年前の台風でも石がごろごろ出た。それを全部上げてね、護摩壇を置く周りは全部自然石。外の感じを。(笑い)ま、そういう意味でね、よそでは見られない護摩堂を作ると、その宮大工が意気込んでる。
太夫 そうしますと、護摩堂の再建であると同時に、修禅寺護摩の復興でもあるわけですね。
住職 どうせ建てるなら、その方が良い。(笑い)
太夫 そうしますと、奥之院を再建して、修禅寺護摩も再興して、そしてそこまでの道を桜でもって綺麗にして、人々がもっと奥之院にお参りしやすくなるような、そういう具合に。
住職 そうですねえ。
太夫 持って行きたいというふうに。
住職 そうですねえ。
太夫 僕も奥之院まで歩いたことがあるんですけれども。
住職 ああ。
太夫 ほんとに良い道ですよね。
住職 で、あそこに18軒農家があるんですがね。その農家の人たちがね、しょっちゅう田んぼの草を刈り込みしたりしてね、もうほんとに綺麗なんですね。ですから、歩いていても何か箱庭を巡っているような清清しさを感ずるもんですから、それをぜひ、修善寺温泉へ来る人たちに味わってもらいたいと思っていたわけですね。ところが、奥之院のすぐ地続きにやっぱり寺の土地がありまして、それが田んぼになってたんですよね。寺の方で作りようがないもんですから、近くの農家の人に貸してたんです。ところが、もう手がなくなったから、田んぼ作れないから、お寺へお返ししますという。寺へ返されても放っておけば1年で藪になっちまいますから、困ったなあって思ってたんです。そうしたらちょうど良いときに、町の方へ、温泉場の方へ、県の方からお金が下りたんですね。それを使って公園を作ろうじゃないかという話になった。
太夫 ああ、阿字苑。
住職 ええ、阿字苑。それでね、町が作ってくれたんですよね。それで、それを作ってくれた時に、寺は無料で土地を貸せるという、ですから、あとの管理はそちらでやってもらうしか仕方がなかったんですが、町としてもそれを長く責任を持たされることは負担になるということで、日常の手入れはその土地の人がやるということになった。ところが、土地の人が農をだんだんやらなくなって勤めを始めちゃった。そうすると、それが伝わっていくと、せっかく綺麗な奥の院道が見る影もなくなっちまう。こりゃあ困ったもんだなと思って。なんとか農を続けながら、その人たちがやっていけるようにしなきゃ。それにはとにかく、奥之院へお客を呼び込んで、そして農をするにしても米やなんかじゃなくて美味しい野菜でも作って、そしてそれを買って帰るような。そういうような、それに応えるような農業をやらしていきたいと思って。まあその一環として、桜を植えれば、あそこはね、入っていくときに少しづつ景色が変わってくるんですよね。あの辺にあるといいなと。桜があるといいなと。遠くを見たり近くを見たり、すぐそばを見たりその下を潜ったり、桜を色々に見て行きたいなと思って。それが実現するといいなと思っています。
太夫 今、奥之院というと、ちょっと温泉場からも離れていて、一般の観光客にもちょっと知られてないところだと思うんですけれども。
住職 そうですね。
太夫 あそこがもうちょっと人々に注目されるといいですよね。とっても良い所ですよね。
住職 そうですよね。日中、あそこまで歩いて往復して帰ってきてね、温泉へ浸かるなんて、一番健康的にもいいんじゃないかと思うんです。(笑い)
太夫 歩くと片道1時間…1時間半くらいですか。
住職 そうですね。上りはちょっとかかりますがね。下りは知らない間に来ちまいますよ。相手でもいれば、話してるうちにね。(笑い)
太夫 あ、なるほど。いいですね。上りが多少息が切れるくらいで。
住職 ですから、歩ける人はなるべく歩く。けども、足の悪い人もあるでしょうから、バス会社に話をして、小型のバス、それも10人くらい乗れればいいようなバスで、花電車のような雰囲気でもって乗れるような、そういうバスを作ってもらって、そんなのを動かしたらどうかなと。(笑い)
太夫 なるほど。
住職 山梨県の昇仙峡を馬車が、今はどうだかわかりませんが私が若い頃、馬車がありましてね。あれも馬に装束を付けたりしてね。(笑い)ただの馬じゃなくて。観光に適する格好をさせて。そのイメージでね、今は馬車じゃないから、(笑い)バスをね、絵を描いたりして。出来れば天気のいいときなんか屋根がないほうがいいんだけど、まあバスはそういうわけに行かない。(笑い)
太夫 (笑い)奥の院行きのバスというのは、決まったんですか。
住職 いやいや、まだ私の胸の中にあるわけで、おおっぴらにはしてないです。
太夫 確かに、足の悪い方からすると、歩くのは難しい距離ですね。
住職 ええ。でもね、車に乗ってもあそこはやっぱり気持ちの良い所ですからね。ぜひ実現したいと。これは私の生きてるうちは実現できないと思うけれども、手をつけておけば次の者がやってくれるだろうと思うから。
太夫 奥之院に、もっと人々が楽しく気持ちよく参詣できるための道を作り建物を作り、そういう機運を作っていくということですね。
住職 そうですね。
太夫 もう、一大プロジェクトですね。
住職 近々ね、生きてるうちに、東海バスの方へも行って来ようと思って。話だけしてこようと。路線は持ってるんです。だからね、箱を作るだけなんです。(笑い)バスを。今でも日に何回か行ってるんです。日中はほとんどないですが、朝と…
太夫 夕方ですよね。現地の方が使う。
住職 そう。だから、あれはむしろマイナスぐらいじゃないですか、収入は。会社の。それじゃ長続きしないからね。やっぱり路線持ってたら、人が乗るような…。ところが、土地の人はほとんど勤め人だけでしょうね、使うのは。ですから知れたもんですよ。
太夫 今度の勧進今申楽も、その奥之院のことを皆さんに知っていただくための良い機会になればいいなと思うんです。
住職 そうですねえ。

Ⅳ 縁

太夫 実はですね、一つ御前様にお耳に入れたい話があるんです。
住職 はあ。
太夫 先日祖母と話をしておりまして、祖母が、曾祖母の形見の和服を出してきたんです。それを僕が見るのは初めてだったんですけれども、服の紋所が笹竜胆だったんです。
住職 ほう。そうですか。それは珍しいですね。
太夫 祖母はもともと安達姓だったんです。その実家の言い伝えでは、もともと源氏に仕えていた安達家だったらしいんですね。ま、どこまで事実かは全然わからないんですけれども、少なくともそういう言い伝えを持った家だったそうで…。祖母が形見の品を出してくるまで、全然僕も知らなかったんですが。
住職 そうですか。笹竜胆にはね、三つ合わせの笹竜胆と一つの笹竜胆があるんですが、どっちだったんですか。
太夫 一つでした。
住職 一つですか。それじゃ、さらに元ですね。
太夫 ですから、祖父は祖母をお嫁にもらったときはずいぶん恐縮していたらしいんです。(笑い)
住職 そうですか。(笑い)笹竜胆じゃ、大変ですよ。
太夫 もしかしたら、そうすると頼家とも縁続きなのかもしれないという。(笑い)
住職 ああ、続いているでしょう。
太夫 続いてますかねえ。まあ、とにかくびっくりしました。まさか自分と関係のあるところから笹竜胆が出てくるとは思わなかったもんですから。
住職 (笑い)
太夫 そんなことがありまして。祖母も7月に見に来てくれると思うんですけれども。この辺は安達のお墓もありますよね。安達藤九郎盛長の。
住職 ありますね。
太夫 祖母の安達は、あの安達と、もしかすると何か関係があるのかなあとも思ったんですけれども…。
住職 あるでしょうねえ。安達は結構広い範囲で勢力を伸ばしてますから。
太夫 ああ、そうですか。とにかく源氏の家来の安達である、だけれども家紋は笹竜胆を許されている、というのがうちの祖母の家だったらしいです。そうすると何か事情があって、安達姓にしたけれども、でも…
住職 元はね。出が…。
太夫 そういうものなんですかねえ。
住職 縁があったんですよ。(笑い)
太夫 (笑い)そんなことがあったもんですから、これはちょっとご報告しないといけないと思いまして。
住職 私は戦争中兵隊で、戦争には参加しなかったけども、ここから兵隊に行って、それで戦争が終わってまたここへ帰ってきたんですがね。その時に、知ってるのが熱海中学校の初代の校長に推されたもんでね、教員を集めなきゃならない。それで、私がいることを知って、頼みに来たですよ。ところがここにも雲水が、まだ生き残りが2、3人、いましてね。その面倒をみていたもんですから、そっちに行くわけには行かないといって2回断ったんですけども、3回目に断りきれなくなって、それじゃあ代わりが出来るまで行ってやると言って。それで熱海中学校へ通い始めたんですよね。その時の最初の卒業生が昭和24年度。だから行った年に3年を担当したから、お付き合いしたのは1年間なんですが、それがずっとクラス会を開いてましてね。学校が熱海だから会合も熱海でやってたんですけど、私が年とって外に出るのが億劫になったらね、ここまで来て同窓会を開いてくれる。それでもう5回ばかり開いたんですけど、今年もここで開きたいと。どうせ来るなら、こういうのやるから、その日はどうかということで。そうしたら向こうも乗り気になって。
というのはね。終戦当時というのは、熱海出身の者は半分以下なんですよ、人数で。東京横浜の疎開者なんです、疎開してきて別荘へ入っている。それが帰って行ったもんですから、京浜に籍を持っているのが半数。ですから、同窓会も、ま、私を呼ぶときには熱海で開きますけれど、東京の方で同窓会を開く。その方が集まりがいいもんで。
その同窓会がね、この日来ることになってる。(笑い)
太夫 うわあ。もう、ほんとに嬉しいですね。
住職 楽しみにしてると。昨日も来て、パンフレット持って行きました。そんなわけでね、私の方こそ嬉しいわけです。しかも一番物足りなかったのは、『修禅寺物語』の、あっち(岡本綺堂作)の方のね、あれはあれでいいけれども、政子が全然出てこない『修禅寺物語』はないなあと。(笑い)
太夫 あの、これまた不思議なご縁なんですけれど。さっきちょっとお話しした祖父が、もう何年か前に亡くなってるんですが、南熱海の網代山に家を持ってたんです。それと、それは母方の祖父なんですけれど、父方の祖父が、こっちも亡くなってますけれど、やっぱり鎌倉に家を持ってたんです。
住職 ほう。
太夫 で、僕は本当に小さい時から母方のおじいちゃんと父方のおじいちゃんの家である網代の家と鎌倉の家にしょっちゅう遊びに行ってたんですよね。ですから、伊豆山、さっき名前が出た伊豆山神社の下なんか車でしょっちゅう通り過ぎてまして。
住職 そうですか。
太夫 で、あとは鎌倉でしょっちゅう遊んでたような人間なんです、僕は。
住職 へえ。
太夫 なので、伊豆とか鎌倉の空気は昔から知ってるので、これもなんか、ご縁かなあって思ってるんです。
住職 やっぱり目に見えない縁というのはあって、何かそれが現実になって現れてくるということはあるんですねえ。
太夫 そういうものなのかもしれないですね。去年、『修禅寺物語』は劇としては良いんだけども、北条政子の出番がまったくないと(東京公演の)チラシに書いて下さいましたよね。
住職 ええ。
太夫 あの文章を読んだときに、ああ、僕が修禅寺に行ったときに感じた事と同じだと思いまして…。2004年に朧座の第1回公演が終わって、その時は清少納言の話をやったんですけれども、終わったあとすぐに朧座の仲間が、「次は北条政子なんか見てみたい」って言うんですね。で、北条政子さんかあと思いまして。何かいい題材はあるかなあと思ったときに、「概して優しい、慈しみの深い母であったらしいが、長男頼家とだけはうまくいかなかった」っていうことが書いてある歴史の本と出会いまして。
住職 うん。
太夫 「長男頼家とだけはうまくいかなかった」っていうのになんとなく引かれまして。それでとにかく修禅寺に行ってみようと思いまして、それで2004年の夏に来たんですね。それより前にも1、2回来たことはあったんですけれど、その時は慌しく通り過ぎるような感じで。2004年のときに初めてゆっくり宝物館を拝見したりして、『修禅寺物語』のことも見まして、やっぱり頼家は脇役ですし政子は出てこないですし、ちょっとなんか、ああ、この辺に何か朧座がやるべきことがあるのかなっていう気がしたんですね。
住職 ね。
太夫 今、ちょっと台本に手を加えて、去年からよりよくなるように頑張っています。
住職 そうですか。有難うございます。
太夫 こちらこそ有難うございます。
住職 楽しみにしています。あとは、天候次第ですね。やっぱり、外が良いですよね。
太夫 良いですね。
住職 これほどの舞台はありませんよ。
太夫 あの1200年祭の7月21・22日の修禅寺の境内でなければ、もう見られなかったんだなあっていうものを作りたいんです。
住職 そうですねえ。当日の舞台の照明も難しくなってきますね。
太夫 そうですね。
住職 私もね、他のことは口出さないけれども、照明だけはね、目を見張ってるんです。(笑い)
太夫 (笑い)今、舞台のイメージ図も作ってますので、早いうちにお送りさせて戴きます。
住職 頑張って。
太夫 今日は本当に有難うございました。
住職 きっと良いものが出来ますよ。
(平成19年5月10日 伊豆修禅寺にて)

 
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